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森鴎外(もりおうがい)〔二〕

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千八百九十九年(明治三十二年)六月に、鴎外(おうがい)は軍医監(少将相当)に昇進しする。

東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第十二師団軍医部長に「左遷」されるも、前任者の辞任による穴埋め後任人事とも言われる。

十九世紀末から二十世紀の初頭をすごした鴎外(おうがい)の小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。

千九百年(明治三十三年)一月に、鴎外(おうがい)の先妻・旧姓・赤松登志子が結核で死亡する。

その後母の勧めるまま千九百二年(明治三十五年)一月、四十一歳の鴎外(おうがい)は十八歳年下・二十三歳の荒木志げと再婚同士の見合い結婚をした。

千九百二年(明治三十五年)三月、鴎外(おうがい)は第一師団軍医部長の辞令を受け、新妻・志げとともに東京に赴任した。

上京した鴎外(おうがい)は六月、廃刊になっていた「めざまし草」と上田敏の主宰する「芸苑」とを合併し、「芸文」を創刊する。

しかしその後、出版社とのトラブルで「芸文」を廃刊とし、十月に後身の「万年艸(まんねんぐさ)」を創刊する。

当時は、十二月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる鴎外(おうがい)の活動が目立っていた。

千九百四年(明治三十七年)二月から千九百六年(明治三十九年)一月まで、鴎外(おうがい)は日露戦争に第二軍軍医部長として出征する。

千九百七年(明治四十年)九月、鴎外(おうがい)は美術審査員に任じられ、第一回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた。

千九百七年(明治四十年)十月、鴎外(おうがい)は陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した。

千九百九年(明治四十二年)に「スバル」が創刊されると、鴎外(おうがい)は同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した。

鴎外(おうがい)は「スバル」紙に「半日」、「ヰタ・セクスアリス」、「鶏」、「青年」などを載せ、「仮面」、「静」などの戯曲を発表する。

「スバル」創刊年の七月、鴎外(おうがい)は東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。

しかし、学位授与の直後に「ヰタ・セクスアリス」(スバル誌七月号)が発売禁止処分を受ける。

しかも、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた八月、鴎外(おうがい)は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)される。

千九百九年(明治四十二年)十二月、鴎外(おうがい)は「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。

慶應義塾大学の文学科顧問に鴎外(おうがい)が就任(教授職に永井荷風(ながいかふう)を推薦)した千九百十年(明治四十三年)は、五月に大逆事件の検挙がはじまりる。

鴎外(おうがい)は九月に東京朝日新聞が連載「危険なる洋書」を開始して六回目に鴎外(おうがい)と妻・志げの名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。

そうした閉塞感がただよう年に、鴎外(おうがい)は「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義や無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表。

千九百十一年(明治四十四年)にも、鴎外(おうがい)は「カズイスチカ」、「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始する。

千九百十一年(明治四十四年)四月の「文芸の主義(原題:文芸断片)」では、冒頭「芸術に主義と言うものは本来ないと思う。」とした。

その上で、「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義と言う漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家の為に惜むべき事である。」とし、「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」と鴎外(おうがい)は結んだ。

また、鴎外(おうがい)は陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本と激しく対立した。

挙句、終(つい)に医務局長の鴎外(おうがい)は石本に辞意を告げる事態になる。

この対立、結局のところ陸軍では医学優先の人事が継続され、鴎外(おうがい)が勝つ。

階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の鴎外(おうがい)の主張が通った背景の一つに、「山縣有朋(やまがたありとも)の存在が在った」と考えられている。

千九百十二年(明治四十五年/大正元年)から翌年にかけて、鴎外(おうがい)は五条秀麿を主人公にした「かのやうに」、「吃逆」、「藤棚」、「鎚一下」の連作を発表する。

また、司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。

当時鴎外(おうがい)は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。

また、公務のかたわら、鴎外(おうがい)は「ファウスト」などゲーテの三作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。

千九百十二年(大正元年)八月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外(おうがい)独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表する。

翌千九百十三年(大正二年)九月十三日、鴎外(おうがい)は乃木希典(のぎまれすけ)の殉死に影響を受けて五日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。

「興津弥五右衛門の遺書」の執筆を機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」、「高瀬舟」などの後、史伝「渋江抽斎」に結実した。

それでも鴎外(おうがい)は、千九百十五年(大正四年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。

千九百十六年(大正五年)、鴎外(おうがい)は随筆「空車(むなぐるま)」を、千九百十八年(大正七年)一月には随筆「礼儀小言」を著した

千九百十六年(大正五年)四月、鴎外(おうがい)は任官時の年齢が低い事もあり、トップの陸軍省医務局長を八年半つとめて退き、予備役に編入された。

その後鴎外(おうがい)は、千九百十八年(大正七年)九月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任する。

さらに千九百十八年(大正七年)十二月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)に、翌年一月に帝室制度審議会御用掛に就任した。

鴎外(おうがい)は元号の「明治」と「大正」に否定的であった為、宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。

しかし「帝諡考」は刊行したものの、鴎外(おうがい)は病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の「元号考」の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。

千九百二十二年(大正十一年)七月九日午前七時過ぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核の為に鴎外(おうがい)は満六十歳で死去した。

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by mmcjiyodan | 2013-09-11 00:20  

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