正岡子規(まさおかしき)
千八百六十七年(慶応三年)十月十四日に伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚と八重の間に長男・常規(つねのり)として生まれた。
母・八重は、松山藩の儒者・大原観山の長女である。
千八百七十二年(明治五年)、幼くして父・常尚が没した為に常規(つねのり)は家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。
常規(つねのり)=子規(しき)は、外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。
少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。
正岡常規(まさおかつねのり)=子規(しき)は、千八百八十年(明治十三年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学する。
千八百八十三年(明治十五年)、同旧制愛媛一中を中退して上京し、受験勉強の為に共立学校(現・開成高)に入学。
翌年、旧藩主・松平家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。
千八百九十年(明治二十三年)、常規(つねのり)は帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。
この頃から常規(つねのり)は「子規(しき)」と号して句作を行い、正岡子規(まさおかしき)が誕生する。
愛媛一中、共立学校で同級だった後の海軍中将・秋山真之(あきやまさねゆき)とは、松山在住時からの友人である。
また、子規(しき)と秋山真之(あきやまさねゆき)の共通の、同郷の友人として大蔵官僚から政治家・勝田主計(しょうだ かずえ)がいた。
東大予備門では、子規(しき)は夏目漱石(なつめそうせき)・南方熊楠・山田美妙らと同窓だった。
大学中退後、子規(しき)は叔父・加藤拓川の紹介で千八百九十二年(明治二十五年)に日刊新聞・「日本」の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。
千八百九十三年(明治二十六年)に、子規(しき)は日刊新聞・「日本」に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。
千八百九十四年(明治二十七年)夏に日清戦争が勃発すると、子規(しき)は翌千八百九十五年(明治二十八年)四月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡った。
しかし、子規(しき)が上陸した二日後に下関条約が調印された為、同年五月、第二軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。
その帰国の船中で子規(しき)は喀血して重態に陥り、入港即神戸病院に入院する。
千八百九十五年1(明治二十八年)七月、須磨保養院で療養した後、子規(しき)は松山に帰郷した。
千八百九十七年1(明治三十年)に子規(しき)は俳句雑誌・「ホトトギス(ほとゝぎす)」を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献する。
この次期の子規(しき)は夏目漱石(なつめそうせき)の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
短歌に於いても、子規(しき)は「歌よみに与ふる書」を日刊新聞・「日本」に連載する。
子規(しき)は古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。
子規(しき)が興した根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社・「アララギ」へと発展していく。
やがて病いに臥せつつ「病牀六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。
同時期に病床で書かれた子規(しき)の日記・「仰臥漫録」の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。
千九百二年(明治三十五年)九月、三十五歳の若過ぎる子規(しき)の死去だった。
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皇統と鵺の影人
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