芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
新原龍之介生後七ヵ月後頃に、母・フクが精神に異常をきたした為、東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。
新原龍之介十一歳の時に母・フクが亡くなり、翌年に龍之介は叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗る事になった。
母の実家・芥川家は旧家の士族で、江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家柄だった。
その家柄の為、芥川家では芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が、家庭環境として残っていた。
龍之介(りゅうのすけ)は、府立第三中学校を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、千九百十年(明治四十三年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行された為、第一高等学校第一部乙類に入学する。
同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛(きくちかん)、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明、渋沢秀雄らがいた。
千九百十三年(大正二年)、龍之介(りゅうのすけ)は当時一学年に数人のみしか合格者を出さない難関の東京帝国大学文科大学英文学科へ進学する。
東京帝大在学中の千九百十四年(大正三年)二月に、龍之介(りゅうのすけ)は一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌・「新思潮(第三次)」を再刊行する。
この頃の筆名(ペンネーム)は「柳川隆之助」または「柳川隆之介」で洋書の和訳を寄稿し、その後同誌上に処女小説「老年」を発表し作家活動の始りとなる。
千九百十五年(大正四年)十月、龍之介(りゅうのすけ)は代表作の1つとなる「羅生門」を「芥川龍之介」名で「帝国文学」に発表する。
また、この年に級友・鈴木三重吉の紹介で作家・夏目漱石(なつめそうせき)の門下に入る。
千九百十六年(大正五年)に、第三次とほぼ同じメンバーで「新思潮(第四次)」を再刊行し、その創刊号に掲載した「鼻」が師である夏目漱石に絶賛される。
この千九百十六年(大正五年)に龍之介(りゅうのすけ)は、東京帝国大学文科大学英文学科を二十人中二番の成績で卒業する。
夏目漱石の口添えもあり、畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として龍之介(りゅうのすけ)を推薦、教鞭を執る事になる。
龍之介(りゅうのすけ)は海軍機関学校の教官のかたわら創作に励み、翌年五月には初の短編集・「羅生門」を刊行する。
その後も短編作品を次々に発表し、十一月には早くも第二短編集・「煙草と悪魔」を発刊している。
千九百十八年(大正七年)の秋、懇意にしていた「三田文学」の同人・小島政二郎の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが実現しなかった。
千九百十九年(大正八年)三月、龍之介(りゅうのすけ)は友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚の為海軍機関学校の教職を辞す。
この結婚で龍之介(りゅうのすけ)は、寄稿が仕事で出社の義務はない条件(客外社員)で菊池寛とともに大阪毎日新聞社に入社し創作に専念する事になる。
千八百二十一年(大正十年)には、龍之介(りゅうのすけ)は次第に心身衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病み、千九百二十三年(大正十二年)には湯河原町へ湯治に赴いている。
千九百二十五年(大正十四年)頃から、龍之介(りゅうのすけ)は文化学院文学部講師に就任するも、翌年には胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養する。
千九百二十七年(昭和二年)四月頃、龍之介(りゅうのすけ)は、秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。
同千九百二十七年(昭和二年)七月二十四日未明、龍之介(りゅうのすけ)は、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。
死の八年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛(きくちかん)が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。
芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
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