夏目漱石(なつめそうせき)〔二〕
千八百九十六年(明治二十九年)、漱石(そうせき)は熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をする
しかし鏡子は、慣れない環境と流産の為ヒステリー症が激しくなり、三年目には白川井川淵に投身を図るなど、漱石(そうせき)には順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。
この頃の漱石(そうせき)は俳壇でも活躍し、家庭面以外では順調に名声をあげて行く。
千九百年(明治三十三年)五月、漱石(そうせき)は文部省より英語研究の為(英文学の研究ではない)英国留学を命ぜられる。
千九百年最初の漱石(そうせき)の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。
漱石(そうせき)はメレディスやディケンズをよく読み漁った。
大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講を止めてしまう。
漱石(そうせき)は「永日小品」にも出て来るシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また「文学論」の研究に勤しんだりする。
しかし漱石(そうせき)は、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。
漱石(そうせき)は「夜下宿ノ三階ニテ、ツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。
それでもこのロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆・「倫敦塔」が書かれている。
千九百一年(明治三十四年)、化学者の池田菊苗と二か月間同居する事で新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。
その結果、今まで付き合いの在った留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送る。
土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。
漱石(そうせき)英国留学中の千九百二年(明治三十五年)九月、正岡子規(まさおかしき)が三十五歳の若過ぎる死を迎えた。
千九百二年(明治三十五年)九月に芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出る。
その為、「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。
漱石(そうせき)は急遽帰国を命じられ、千九百二年(明治三十五年)十二月五日にロンドンを発つ事になった。
帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石(そうせき)の親族は、これを漱石(そうせき)が精神病を患っている為であろうと、いよいよ心配した。
当時の漱石(そうせき)最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が恒松郁生によって千九百八十四年(昭和五十九年)に設立された。
漱石(そうせき)の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを記念館に展示し一般公開されている。
漱石(そうせき)は英国留学から帰国後の千九百三年(明治三十六年)三月三日に、本郷区駒込千駄木町五十七番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入する。
千九百三年(明治三十六年)四月、漱石(そうせき)は第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる。
当時の第一高等学校長は、親友の狩野亨吉であった。
東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。
また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石(そうせき)に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。
こうした中、漱石(そうせき)は神経衰弱になり、妻・鏡子とも約二か月別居する。
千九百四年(明治三十七年)には、漱石(そうせき)は明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげる為処女作になる「吾輩は猫である」を執筆し初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。
千九百五年(明治三十八年)一月、「ホトトギス」に一回の読み切りとして掲載されたが、好評の為続編を執筆する。
この時から漱石(そうせき)は、作家として生きて行く事を熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。
漱石(そうせき)の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
千九百六年(明治三十九年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。
これが後の「木曜会」の起こりと成る。
その「木曜会・夏目門下」には内田百閒・野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介(かくたがわりゅのすけ)や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。
千九百七年(明治四十年)二月、漱石(そうせき)は一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社する。
当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。
千九百七年(明治四十年)六月、漱石(そうせき)は職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始するが、執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。
千九百九年(明治四十二年)親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。
この旅行の記録は、「朝日新聞」に「満韓ところどころ」として連載される。
千九百十年(明治四十三年)六月、「三四郎」、「それから」に続く前期三部作の三作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院する。
同千九百十年(明治四十三年)八月、療養の為門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。
しかしそこで胃疾になり、八百グラムにも及ぶ「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血事件を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。
この時の一時的な「死」を体験した事は、その後の作品に影響を与える事に成る。
漱石(そうせき)自身も「思い出すことなど」で、この時の事に触れている。
最晩年の漱石(そうせき)は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。
「硝子戸の中」では、本音に近い真情の吐露が見られる。
千九百十年(明治四十三年)十一月、漱石(そうせき)の容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。
千九百十一年(明治四十四年)八月関西での講演直後に胃潰瘍が再発し、漱石(そうせき)は大阪の大阪胃腸病院に入院する。
退院して東京に戻った後は、痔にかかり通院する。
大正期に入った後の漱石(そうせき)は、それこそ闘病との連続で、千九百十二年(大正元年)九月に痔の再手術をする。
千九百十二年(大正元年)十二月には、「行人」も病気の為に初めて漱石(そうせき)は執筆を中絶する。
千九百十三年(大正二年)、漱石(そうせき)は、神経衰弱、胃潰瘍で六月頃まで悩まされる。
千九百十四年(大正三年)九月、漱石(そうせき)は四度目の胃潰瘍で病臥する。
この年の漱石(そうせき)作品は人間のエゴイズムを追い求めて行き、後期三部作と呼ばれる「彼岸過迄」、「行人」、「こゝろ」へと繋がって行く。
千九百十五年(大正四年)三月、漱石(そうせき)は京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。
この年の六月より、漱石(そうせき)は「吾輩は猫である」の執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始する。
千九百十六年(大正五年)には、漱石(そうせき)は糖尿病にも悩まされる。
この千九百十六年(大正五年)、辰野隆の結婚式に出席して後の十二月九日、漱石(そうせき)は大内出血を起こし、「明暗」執筆途中に四十九歳十ヶ月で死去した。
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皇統と鵺の影人
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