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士族(しぞく)

千八百六十九年(明治二年)三月、明治帝は明治元年の江戸行幸に続き三条実美(さんじょうさねとみ)らを従えて再び東幸を慣行する。

行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在する為に東京城を「皇城」と称する事とする。

建前はあくまでも東京への一時的な行幸だったが、明治帝はそのまま皇城・東京城(旧江戸城)に住み続ける形で千年の都・京都から江戸へ遷都し、東京と為す。


士族(しぞく)とは、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として録を受け取るも華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。

士族階級に属する者には、「壬申戸籍(じんしんこせき)」に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後千九百四十七年(昭和二十二年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。


千八百五十九年(明治二年)の「版籍奉還」の直後の千八百六十九年(明治二年)八月二日、行政官達第五百七十六号により明治政府は旧武士階級(藩士兵卒)のうち、藩一門から平藩士までを士族と呼ぶ事を定める。

士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分で在った足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた。

一方で、中間などの武家奉公人は卒族に編入された。

政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした。

さらに千八百七十年(明治二年)一月三日、太政官布第千四号によりかつての旗本が新政府帰順後に与えられていた中下大夫上士以下の称が廃止され、華族に編入された一部の交代寄合を除いて士族に編入された。

千八百七十一年(明治三年)一月三十日には、華族とみなされなかった多くの地下家、公家に仕えていた青侍などの家臣層も士卒族に統合された。

その後、寺社の寺侍(じざむらい/てらさむらい)なども段階的に士卒族へ統合された。

その一方で、給金の財源不足への対策として帰農帰商が推奨され、士卒族から平民への転籍が推進された。

また蔵米の等級の変更により、一部の卒族から士族への族籍変更が行われた。

千八百七十二年(明治五年)に編製された戸籍「壬申戸籍(じんしんこせき)」に於いては族籍の項目が設けられた。

当時の全国集計による士族人口は全国民の三.九%を占め、また卒族人口は全国民の二十%を占め、士族・卒族・地士の人口は全国民の約六%を占めた。


千八百七十二年(明治五年)三月八日、太政官布第二十九号で卒族の称が廃止される。

卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入される事となった一方、新規に一代限りで卒に雇われた者は平民に復籍する事となる。

千八百七十二年(明治五年)初頭の時点で卒族だった者の九割近くは、士族に移行している。

千八百七十五年(明治八年)までには卒族は完全に解体され、世襲の郷士階級も士族に統合された。

千八百七十六年(明治九年)の時点で、士族は全国民の五.五%を占める事となった。


明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、四代程度に渡って兄弟姉妹、配偶者、それぞれの子供、子孫ら家族すべてが記されていた。

男子は結婚しても兄弟すべての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍する事はなかった。

士族に生まれた者であっても分籍した場合は平民とされた為、分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。

大正時代の平民宰相・原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受ける為、二十歳の時に分籍して戸主となり「平民」に編入された。

士族(しぞく)の解体】に続く。

第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2013-09-21 18:09  

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