華族(かぞく)
行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在する為に東京城を「皇城」と称する事とする。
建前はあくまでも東京への一時的な行幸だったが、明治帝はそのまま皇城・東京城(旧江戸城)に住み続ける形で千年の都・京都から江戸へ遷都し、東京と為す。
明治維新を成し遂げた英雄達は、日本を欧米列強と伍して行く近代国家にする為に国家の制度そのものを大改定する事にした。
即(すなわ)ち将軍家や大名家、そして下級武家と言った今までの分散軍事支配体制を全て廃止して天皇直轄の軍隊に改め、天皇親政の支配体制にする事を選択する。
旧公家、旧大名家、維新の功績者家などは「華族(かぞく)」、旧下級武家は「士族(しぞく)」とする新たな身分制度に移行する事にした。
華族(かぞく)とは、千八百六十九年(明治二年)から千九百四十七年(昭和二十二年)まで存在した近代日本の貴族階級の事である。
公家に由来する華族を「公家華族」、江戸時代の藩主に由来する華族を「大名華族(諸侯華族)」、国家への勲功により華族に加えられたものを「新華族(勲功華族)」、臣籍降下した元皇族を「皇親華族」と区別する。
千八百六十九年(明治二年)七月二十五日、「版籍奉還」と同日に出された行政官布達五十四号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となる事が定められた。
公家百三十七家・諸侯二百七十家・明治維新後に公家となった五家・維新後に諸侯となった家十六家の合計四百二十七家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。
なお、維新後に公家となった五家の内訳は松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家の五家である。
維新後に諸侯となった家十六家は、徳川御三卿(一橋徳川家・清水徳川家・田安徳川家)の三家、徳川御三家の各附家老家(尾張徳川家附家老・成瀬家・竹腰家)、(紀伊徳川家附家老・安藤家・水野家)、(水戸徳川家附家老・中山家)の五家、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩主・吉川家、一万石以上の所領を持つ交代寄合格六家(山名家、池田家、山崎家、平野家、本堂家、生駒家)、一万石以上の所領を持つ高家・大沢家の十六家である。
当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族が在った。
またこの後も、新たな華族が加えられる。
奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった二十六家は奈良華族と総称された。
また、大久保利通(おおくぼとしみち)の功により大久保家が、木戸孝允(きどたかよし)の功により木戸家が、広沢真臣(ひろさわさねおみ)の功により広沢家が、それぞれ明治帝の特旨によって華族になった。
華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの三家のみである。
他に西郷隆盛(さいごうたかもり)の功により西郷家も華族(侯爵)になっているが、西南戦争の影響で大幅に遅れた。
さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫・南北朝時代の南朝方の忠臣だった新田義貞(にったよしさだ)の功により新田家が、名和長年(なわながとし)の功により名和家が、菊池武光(きくちたけみつ)の功により菊池家が、明治帝の特旨によりこの明治時代に華族復権となっている。
この南朝忠臣の華族復権は、北朝系である筈の明治帝の特旨としては唐突処置の為に「維新の謎」とも言われている。
華族と言う名称が採用された経緯ははっきりとしない。
華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣、大久保利通、副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を持っていたとされる。
総裁・議定・参与の三職による討議(小御所会議)の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。
明治以前までの「華族」と言えば公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格である清華家の別称だった。
つまり維新前の家格は「完全に新しいものと置き換えられた」と言える。
実は華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。
千八百六十九年(明治二年)五月には、華族を「公」「卿」「太夫」「士」の四つに分け、公と卿は上下の二段階、太夫と士は上中下の三段階という計九等級に分ける案が三職会議から提出された。
千八百七十一年(明治四年)九月には正院から左院に「上公」「公」「亜公」「上卿」「卿」の五等級に分ける案が下問された。
これを受けた左院は十月に「公」「卿」「士」の三等級に分ける案を提出した。
千八百七十六年(明治九年)には法制局が「公」「伯」「士」の三等級案を提出し、西南戦争以前は三等級案が主流となっていた。
千八百七十八年(明治十一年)二月四日、法制局大書記官・尾崎三良と少書記官・桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の五等級案が提出された。
これは五経の一つである「礼記」の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである。
千八百六十九年(明治二年)十一月二十日、旧諸侯の華族は原則東京に住居する事が定められるも、地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。
また同月には旧公家の華族の禄制が定められ、また華族は全て地方官の貫属とする旨が布告された。
千八百七十一年(明治四年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民(士農工商)の上に立ってその模範となる事が求められた。
また諸侯華族(旧大名家)は、千八百七十一年(明治四年)二月二十日に全て東京府の貫属となる。
為に諸侯華族(旧大名家)は旧領の支配権を失い、七月十四日には廃藩置県が行われ、諸侯華族は知藩事としての地位も失った。
千八百七十四年(明治七年)には華族の団結と交友の為、華族会館が創立された。
千八百七十六年(明治九年)全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別無く系図上の血縁ごとに七十六の「類」として分類された。
同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになり、千八百七十八年(明治十一年)にはこれをまとめた「華族類別録」が刊行されている。
千八百七十七年(明治十年)には華族の子弟教育の為に学習院が開校され、同年華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行も設立された。
これら華族制度の整備を主導したのは、自らも公家華族である右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)だった。
岩倉具視は伊藤博文(いとうひろぶみ)と政治的に協力関係に在った。
だが、伊藤博文や木戸孝允(きどたかよし)が構想した将来の議会上院形成の為に華族を増員する事、具体的には維新の功労者を華族に加える事には強い拒否反応を示した。
岩倉具視は、そもそも華族が政治に参加する事に反対だった。
しかし千八百八十一年(明治十四年)に国会開設の詔(みことのり)が出されると岩倉具視もようやく伊藤博文の上院形成方針に同意した。
千八百八十三年(明治十六年)、岩倉具視は喉頭癌(こうとうがん)を発症、同年七月二十日、具視は死去する。
岩倉具視の死後、伊藤博文を中心に設置された制度取調局で華族制度の「爵制整備案」が進められた。
千八百八十四年(明治十七年)七月七日、華族令が制定され、これにより華族は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。
この基準は、二ヶ月前の五月七日に賞勲局総裁・柳原前光から太政大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。
同時に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家二十九家が華族に列せられ、爵位を受けている。
叙爵は七月中に三度行われ、五百九人の有爵者が生まれた。
その華族令制定から六十三年の時が過ぎ、元号は大正、昭和と移り行く。
千九百四十七年(昭和二十二年)五月三日、貴族制度の禁止(憲法十四条二項)と法の下の平等(憲法十四条一項)を定めた日本国憲法の施行とともに華族制度は廃止された。
当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たる事により、いかなる政治的権力も有しない。(補則第九十七条)」と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。
自ら男爵でもあった幣原喜重郎もこの条項に強いこだわりを見せたものの、衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。
なお、歴史学者・小田部雄次(静岡福祉大学教授)の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は千十一家である。
【第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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by mmcjiyodan | 2013-09-21 18:17