維新の十傑(いしんのじゅっけつ)
薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)、福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)、土佐藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)の四人を並び称して幕末の四賢侯とされた。
但し、千八百五十八年(安政五年)の斉彬(なりあきら)没後は薩摩藩十二代藩主・島津忠義の父・島津久光(しまづひさみつ)をバトンタッチまたはプラスワンと言う形で四賢候に加える場合もある。
それにしても、維新の功臣を多く輩出した・長州藩のリアルタイムの藩主・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)の名が、幕末の四賢侯には並んでいない。
長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)は何でも部下任せの「そうせい侯」として有名で、平凡な藩主と言う評価が一般的だが、しかし全て藩士任せにした事で「多くの維新の功臣を輩出した」と言う結果論も在る。
そして幕末の四賢侯から歴史の経緯を引き継いで江戸幕府の倒幕を為した主力の者達が、「維新の十傑」である。
「維新の十傑」に数えられる人物は、公家の岩倉具視、長州藩は大村益次郎・木戸孝允(桂小五郎)・前原一誠・広沢真臣の四名、薩摩藩は西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。
横井小楠(よこいしょうなん)と広沢真臣(ひろさわさねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。
薩長土の三藩プラス肥後藩の薩長土肥と数えられる四藩閥に在りながら、十傑から洩れているのは旧土佐藩士出身の後藤象二郎と板垣退助がいる。
但しこの「維新の十傑」は幕末の動乱を生き残ったからこそで、吉田松陰 (よしだしょういん)を始め、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)、入江九一(いりえくいち)などなど、若くして非業の最期を遂げた勤皇の志士も数多い。
また維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。
十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文や山県有朋、井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達である。
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