大正ロマンと新女性列伝(一)
その十五年間、日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた日本は、大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中だった。
大正ロマンは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉で、しばしば「大正浪漫」とも表記される。
明治時代の経済の自由化とともに商人の立場が向上、大正時代に入って商業が大きく開花する。
欧米から学んだ会社制度が発達し、制度上は個人商店で在った私企業が財閥に発展、世界に向けて大規模化して行く絵に描いたような好景気だった。
また投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、庶民に於いても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられる時代背景だった。
好景気を得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。
大正ロマンの語源は、十九世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受けて呼ばれた名称である。
個人の解放や新しい時代への理想に満ちた大正時代の風潮にかぶせて、「大正ロマン・大正浪漫」と呼ばれるようになった。
大正デモクラシー(民本主義)とは、「政権運用の目的は特権階級ではなく人民一般の利福にあり、政策決定は民意に基づくべき」と言う民権思想である。
西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。
芸術作品にはアール・ヌーボーやアール・デコ、表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多く誕生する。
文芸に於ける耽美主義や同時代のダダイズム(芸術思想・芸術運動)、或るいは政治思想であるアナキズム(無政府主義)などの影響もあった。
元々当時の芸術家や思想家は知性や学歴が良く、為に思考に対する柔軟性や自由度は社会常識には囚われず、一般大衆の生き方とは一線を画していた。
島村抱月(しまむらほうげつ)と松井須磨子(まついすまこ)の劇団事件は、政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激し芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む影響を世与えた。
人気女優・松井須磨子(まついすまこ)の場合は、不倫関係にある愛人・作家の島村抱月(しまむらほうげつ)の病死の後を追って自殺した情死だった。
有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった思想家・大杉栄(おおすぎさかえ)と女性開放活動家・伊藤野枝(いとうのえ)を取り巻く動きについては、逐一新聞などで報道される加熱振りだった。
伊藤野枝は不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤(つじじゅん/翻訳家、思想家)を捨てて大杉栄の妻・堀保子、愛人・神近市子(かみちかいちこ)と四角関係を演じた。
東京日日新聞の記者・神近市子(かみちかいちこ)は、愛人だった大杉栄が、新しい愛人・伊藤野枝に心を移した事から、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷させる「日蔭茶屋事件」を起こし二年間服役する。
市子(いちこ)は出獄後文筆活動を始め、女性運動に参加して衆議院議員総選挙に当選、左派社会党議員として当選六回を重ねる政治家として戦後も活躍した。
野枝は人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、そして小説や翻訳を発表している。
同時代の人々には、自らを主張するその自由獲得への情熱に対する憧れや賛美がドラマチックな感動を与えた。
知識人に於いては個人主義・理想主義が強く意識され、自由恋愛の流行による事件も数少なくはなく、新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安にも脅かされる時代だった。
与謝野晶子(よさのあきこ)は、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に歌集「みだれ髪」で女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立する。
晶子は伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼす事となる。
夫・与謝野鉄幹(よさのてっかん)の編集で作られた歌集の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と言う短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
晶子と知り合った時、夫・鉄幹には妻子が在ったが、鉄幹は晶子の為に妻と離婚し、二人は個人主義・理想主義の大正ロマンの自由恋愛のはしりを実践している。
平塚らいてう(ひらつからいちょう)は大正から昭和にかけ「婦人参政権」の獲得に奔走した事で知られる女性解放運動・婦人運動の指導者である。
らいてう(らいちょう)は妻子を郷里に置いて上京した森田草平(もりたそうへい)と関係を持ち、栃木県塩原で心中未遂事件を起こし、一夜にしてスキャンダラスな存在となる。
らいてう(らいちょう)は、自らが創刊した「青鞜社」に集まる個人主義・理想主義の大正ロマンの女性達の活躍の場を「青鞜」の誌上与えた。
らいてう(らいちょう)は五歳年下の画家志望の青年・奥村博史と茅ヶ崎で出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動の後に事実婚を始めている。
その事実婚の顛末を、らいてう(らいちょう)は「青鞜」の編集後記上で読者に公表、両親にも「青鞜」の誌上で報告している。
その後のらいてう(らいちょう)は、伊藤野枝に「青鞜」の編集権を譲ったり、与謝野晶子と「母性保護論争」を展開したり、「新婦人協会」を設立したりと活発に活動している。
伊藤野枝、与謝野晶子、平塚らいてうなど彼女達の衝動的で奔放(ほんぽう)な男女の行動は、まさに心理学で言う「シンクロニー(同調行動)」であり、「好きになったから仕方が無い」の言い分である。
正直、彼女達女性思想家が奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方を体現した背景には、当時の男性が愛人・妾、アバンチュール(性愛の冒険)を自由に謳歌していた事への対抗心が在ったからである。
それでも兎に角、ドロドロとした性愛劇をあんに想像させる文人男女の争奪愛の経緯をモデルとして書いた作品の発表を、大衆は興味津々で待っていた。
それにしても世間のシガラミに縛られた大衆は、文人男女の自由奔放淫乱(じゆうほんぽういんらん)な性愛劇に、批判的だったのだろうか?
それとも本音は、羨(うらや)ましくて人気を集めたのだろうか?
なお、大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(七歳)の三名は、甘粕正彦(あまかすまさひこ)憲兵大尉に強制連行されて取り調べで殺に至らしめられる「甘粕事件」の被害者となる。
「甘粕事件」は東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕大尉が、関東大震災の混乱に乗じて、震災から半月後の九月十六日にアナキスト(無政府主義者)の抹殺を目論んで起した事件である。
日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中、日本の首都・東京府東京市とその周辺各地を大正関東地震・関東大震災(かんとうだいしんさい)が見舞う。
関東大震災とは、千九百二十三年(大正十二年)九月一日の正午寸前(一分三十秒ほど前)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード七・九の大正関東地震による地震災害を言う。
震源域の真上に位置していた「横浜市の震度は七と推定され、希に見る強震だった」と言う。
【大正ロマンと新女性列伝(二)】に続く。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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