大久保忠隣(おおくぼただちか)
忠隣(ただちか)は、千五百六十三年(永禄六年)から父・忠世(ただよ)の主君・松平元康(まつだいらもとやす/徳川家康)に仕える。
千五百六十八年(永禄十一年)に、忠隣(ただちか)は遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。
これを皮切りに、忠隣(ただちか)は家康の家臣として三河一向一揆、千五百七十年(元亀元年)の姉川の戦い、千五百七十二年(元亀三年)の三方ヶ原の戦いに従軍し活躍する。
三方ヶ原の合戦の負け戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、忠隣(ただちか)は家康の傍を離れず浜松城まで随従した事から、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した。
千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に際して、忠隣(ただちか)は家康の伊賀越えに同行、甲斐・信濃平定事業に於いても切り取った領国の経営に尽力した。
この時に土屋長安(大蔵から土屋)も抜擢され、長安(ながやす)は忠隣(ただちか)はの元で辣腕を発揮し、忠隣(ただちか)から大久保の姓を与えられた。
忠隣(ただちか)は千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦い、千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐などに従軍し活躍した。
千五百八十六年(天正十四年)の家康上洛の時に、忠隣(ただちか)は秀吉の意向で従五位下治部少輔に任じられ、豊臣姓を与えられた。
家康の関東入国の折、忠隣(ただちか)は武蔵国羽生二万石を拝領し、千五百九十三年(文禄二年)には家康の三男・徳川秀忠付の家老となる。
千五百九十三年(文禄三年)に父・忠世(ただよ)が死去すると、家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原六万五千石の領主(後に初代藩主)となる。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い時には、忠隣(ただちか)は東軍の主力を率いた徳川家継子・中納言・秀忠に従い中山道を進む。
その西に向かう途中、信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸(さなだまさゆき)に対して、忠隣(ただちか)は攻撃を主張して本多正信らと対立する。
この上田合戦、結果的に東軍の主力を率いた徳川家継子・中納言・秀忠を「関ヶ原合戦への遅参」と言う痛恨の結果を為す事になる。
千六百一年(慶長六年)、忠隣(ただちか)は高崎藩十三万石への加増を打診されるが固辞した。
千六百十年(慶長十五年)には老中に就任し、第二代将軍・秀忠の政権有力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の体制となる。
二元政治の中、秀忠重臣の忠隣(ただちか)は家康重臣である本多正信・正純父子と対立する。
その底流には、武功派と吏僚派の対立があり、吏僚派の本多父子に対し千六百年頃の忠隣(ただちか)は武功派に強い求心力を持っていた。
本多父子が家康の後継者に家康次男・結城秀康を推奨していた事もあり、側近として秀忠を後援する忠隣(ただちか)には看過しがたいものが在った。
両者の対立は次第に顕在化の様相を呈し、千六百十二年(慶長十七年)の岡本大八事件(有馬賄賂疑獄事件)を経て一気に沸騰する。
さらに千六百十四年(慶長十九年)に起こった大久保長安事件(幕府御用金横領疑獄事件)に忠隣(ただちか)が連座する。
この長安事件に便乗する形で、浪人の馬場八左衛門が忠隣(ただちか)が大坂の豊臣秀頼に内通していると誣告した為、家康の不興を買った。
忠隣(ただちか)はキリシタンの鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いたところ、突如改易を申し渡され、近江国に配流されて井伊直孝(いいなおたか/井伊直政の次男)に御預けの身となった。
この時忠隣(ただちか)は、栗太郡中村郷に五千石の知行地を与えられている。
改易の主要な理由については、表向きには馬場の訴状で指摘された豊臣との内通、長安事件の連座の他、忠隣(ただちか)の養女と山口重信との無断婚姻などが提示されている。
だが、本多父子が長安事件を口実に利用し、政敵である忠隣(ただちか)を追い落とす為の策謀を巡らせたとする見解も強い。
本多正純は岡本大八事件に部下・岡本大八が関与した事で政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣(ただちか)を排斥する事で足場を固めておきたかったものと思われる。
忠隣(ただちか)の改易は「徳川実紀」も本多父子による陰謀説を支持している。
また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、「和平論を唱える可能性のあった忠隣(ただちか)を遠ざけた」とする説などもあるが、明確な理由は不明である。
その後、忠隣(ただちか)は出家して渓庵道白と号し、千六百二十八年(寛永五年)六月二十七日に七十五歳で死去した。
忠隣(ただちか)に将軍家の許しが下る事は終(つい)に無かった。
しかし忠隣(ただちか)の累代に於ける武功が大きかった事から、大久保家の家督は嫡男の忠常が早世した為、嫡孫の忠職(ただもと)が継ぐ事が許される。
その忠職(ただもと)の養子で忠職の従弟・忠朝(ただとも)の時に小田原藩(十一万三千石)の藩主として復帰を果たした。
また、連座で謹慎していた忠隣次男の石川忠総(いしかわただふさ)は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げた事から最終的に近江国膳所藩主となり、子孫は伊勢国亀山藩(五万石)の藩主となった。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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