太閤検地(たいこうけんち)
秀吉は、千五百八十二年から各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎とした。
秀吉は、千五百九十一年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは太閤ではなかったが、学術上の呼称は太閤以前の検地も含めて「太閤検地」と呼ばれている。
太閤と成った千五百九十一年に、秀吉は全国の大名に対し、国郡を基準とした石高帳(一国御前帳)の作成を命じた。
勿論、秀吉の検地以前にも各地の大名によって検地は行われており、特に織田信長によって大規模な検地が行われて「太閤検地の原型になった」と言われている。
信長の命令で柴田勝家が行った越前・加賀・能登などの検地は「国中御縄打」と呼ばれ一五七六年頃の実施である。
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」と言う団体として領主に年貢を納める「地下請(じげうけ)」と言う制度ががほとんどだった。
この体制下では一つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められると言った複雑な権利関係が存在した。
太閤検地ではこう言った権利関係が整理され、一つの土地に複数の耕作者=納税者が存在する事はなくなった。
しかしこれは帳簿の上での事で、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。
この検地により、表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位が統一された。
ただし、実際に計測していないまま申告された例も多く存在し、また検地が実施されても例外は多数存在した。
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by mmcjiyodan | 2013-11-06 18:13