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平塚為広(ひらつかためひろ)

相模国平塚の地頭・三浦為高(みうらためたか/為重)の七代目の子孫・美濃垂井一万二千石・平塚為広(ひらつかためひろ)は、千六百年の関が原戦で石田方西軍の武将として戦死した。

平塚為広(ひらつかためひろ)の平塚氏は、現在の平塚市岡崎を領した三浦義明(みうらよしあき)の弟・岡崎義実(おかざきよしざね)を祖とし相模国大住郡平塚発祥の桓武平氏三浦氏流平塚氏である。

三浦氏は相模国三浦郡矢部郷の出身で、坂東八平氏と並び称される桓武平氏(桓武天皇の皇子・葛原(かずはら)親王流)の流れを汲むの一族である。

豊臣秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵(為広)が、秀吉の中国出陣のおりに播磨の戦で黒田孝高(官兵衛)に陣借りをし、高倉山城主・福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えた。

その後為広(ためひろ)は秀吉の継嗣・豊臣秀頼に仕え、千六百年の関ヶ原の戦いの直前、八千石の知行から漸く美濃垂井一万二千石を領するも関ヶ原の戦いで石田三成方西軍に与し、大谷吉継(行部)軍の一翼をになって伴に討ち死にした。

哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の手勢・兵六千に加え、三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた平塚為広との連合軍・僅か六千に足らぬ兵力の計一万六千だけだった。

平塚為広(ひらつかためひろ)の子・庄兵衛も関ヶ原の戦い討死したと伝えられ、弟の平塚久賀(ひらつかひさよし)は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが助命放免されている。

関ヶ原の戦いに生き残った為広(ためひろ)嫡男・為景(左馬助)は、その後の大坂夏の陣に参加、若江の戦いにて戦死している。

後々、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔を名乗る者現れるは、嫡男・為景(左馬助)や子・庄兵衛、弟・久賀(ひさよし)の子が生きながらえ残ったと考えられる。


江戸後期には、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔で幕府旗本・平塚為善(ひらつかためよし)の娘が将軍・徳川家斉(第十一代将軍)の側室・於万の方となる。

同じく平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔で平塚らいてう・本名は平塚明(ひらつかはる)・東京府麹町区三番町生まれが、文芸家・女性運動家として有名である。

千九百四十六年(昭和二十一年)の第一次吉田内閣で運輸大臣を務めた水産事業家・平塚常次郎(ひらつかつねじろう)もまた、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔だった。

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by mmcjiyodan | 2014-01-22 00:40  

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