杉田玄白(すぎたげんぱく)
玄白(げんぱく)の父は若狭国小浜藩医・杉田玄甫(すぎたげんぽ)、母は八尾氏の娘で、玄白(げんぱく)は江戸・牛込の小浜藩・酒井家の下屋敷に生まれるが、生母は出産の際に死去している。
杉田氏は宇多・近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系で、後北条氏に仕えた真野信安のときに一旦は間宮姓に改め、子の長安の代に杉田姓に復姓した。
医家としては、玄白で三代目にあたり、同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族である。
玄白(げんぱく)は小浜藩・酒井家の下屋敷で育ち、千七百四十年(元文五年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫玄甫(げんぽ)が江戸詰めを命じられる千七百四十五年(延享二年)まで過ごす。
青年期には、玄白(げんぱく)は家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。
玄白(げんぱく)は千七百五十二年(宝暦二年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。
千七百五十四年(宝暦四年)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。
国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を広げると伴に、玄白(げんぱく)が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる。
千七百五十七年(宝暦七年)には江戸・日本橋に開業し、町医者となり、同年七月には、江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内(ひらがげんない)らが物産会を主催する。
出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃に始まっていたと思われる。
千七百六十五年(明和二年)、玄白(げんぱく)は主家・小浜藩・酒井家の奥医師となる。
同千七百六十五年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白(げんぱく)は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問する。
通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白(げんぱく)はオランダ語習得を断念している。
千七百六十九年(明和六年)には父の玄甫(げんぽ)が死去し、玄白(げんぱく)は家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。
千七百七十一年(明和八年)医学の後輩・中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」をもって玄白(げんぱく)の下を訪れる。
玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。
偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。
玄白、良沢、淳庵らは「ターヘル・アナトミア」を和訳し、千七百七十四年(安永三年)に「解体新書」として刊行するに至り、友人・桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上された。
晩年には、玄白(げんぱく)は小浜藩から加増を受けて杉田家の知行は四百石に達している。
千八百七年(文化四年)に家督を子の伯元に譲り隠居するなどの記録が残り、千八百十七年(文化十四年)に八十四歳で没している。
玄白(げんぱく)は通称で、諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は?貪、晩年に九幸翁を称している。
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