平賀源内(ひらがげんない)
突然彗星の様に現れたこの男・源内(げんない)の多才は、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家などに及び、その希に見る広範囲な業績から特筆すべき人物である。
源内(げんない)は、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に白石茂左衛門の子として生まれたが、兄弟多数とだけで第何子かも不明である。
源内(げんない)の平賀姓名乗りは彼のルーツに在り、元々は信濃国佐久郡の豪族だったが、戦国時代・平賀玄信の代に甲斐の武田信虎・晴信(信玄)父子に滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。
その後白石氏として伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り後帰農し、讃岐で讃岐高松藩の足軽身分の家となる。
源内(げんない)は幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で十三歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。
千七百四十八年(寛延元年)、源内(げんない)は父・白石茂左衛門の死により後役として藩の蔵番に登用される。
千七百五十二年(宝暦二年)頃に、源内(げんない)は一年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。
留学から帰藩後に、源内(げんない)は藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて白石家の家督を放棄する。
源内(げんない)は大阪、京都で学び、さらに千七百五十六年(宝暦六年)には江戸に出て本草学者・田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得する為に林家にも入門して聖堂に寄宿する。
この間の千七百五十九年(宝暦九年)には高松藩の家臣として再登用されるが、千七百六十一年(宝暦十一年)に江戸に戻るため再び辞職する。
このとき源内(げんない)は「仕官お構い(奉公構)」となり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。
おそらくはこの頃、源内(げんない)は本姓である平賀姓を名乗ったと想われる。
江戸に本拠地を移してからの源内(げんない)二回目の長崎遊学では、鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ後の千七百六十一年(宝暦十一年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。
源内(げんない)は江戸にて物産博覧会を度々開催し、この頃には松平定信の前の幕府老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)にも知られる様になっている。
千七百六十二年(宝暦十二年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。
こうした活動を通して、源内(げんない)の江戸に於いての知名度も上がり、「解体新書」を翻訳した杉田玄白(すぎたげんぱく)やその後輩で医学・本草学・蘭学の中川淳庵らと交友する。
源内(げんない)の名声が上がると、各藩から鉱山開発の指導依頼が舞い込むなどをこなしながら荒川通船工事や建物設計、談義本の執筆や蘭画の技法を伝えるなどでも活動する。
千七百七十六年(安永五年)には、源内(げんない)は長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元している。
千七百七十九年(安永八年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていた為に修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁二人を殺傷する。
源内(げんない)はその罪で投獄され、年末に破傷風により五十二歳で獄死した。
源内(げんない)の才能に驚嘆した杉田玄白(すぎたげんぱく)らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。
源内(げんない)は通称で元内とも書き、諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。
数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうち きがい)の筆名を用いた。
殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)などと言った別名でも知られていた。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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