今川貞世(いまがわさだよ/了俊)
吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有して、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。
今川家は、室町時代にその吉良家分家として駿河の守護に代々任命され、さらに遠江守護家も分流する。
また、初期の分家である今川関口家は室町幕府の奉公衆であった。
今川貞世(いまがわさだよ)は、足利流・今川氏の一族で鎌倉時代後期から南北朝並立時代・室町時代の武将で、守護大名である。
室町幕府執事となった細川清氏(ほそかわきようじ)が千三百六十一年(正平十六年/延文六年)に失脚して南朝に下ると、今川貞世(いまがわさだよ)は父の命で講和呼びかけの為に遠江から召還される。
貞世(さだよ)は軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の侍所頭人、引付頭人などを務め、千三百六十七年(正平二十二年/貞治六年)に二代将軍・足利義詮が死去すると出家・了俊(りょうしゅん)を名乗る。
今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は、三代将軍・足利義満時代の千三百七十年(建徳元年/応安三年)頃に、幕府管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)から渋川義行(しぶかわよしゆき)の後任の九州探題(九州の統括長官)に推薦され、正式に任命された。
観応の擾乱後に、南朝方の菊池武光が征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)を奉じた征西府、初代室町将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の庶子(直義の養子)である足利直冬らが分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた。
その南朝方征西勢力の九州の平定の為に、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は北朝方九州探題(九州の統括長官)として派遣される。
命を受けた了俊(りょうしゅん)は、本国・遠江で九州出立つの準備をした後、千三百七十年十月に京都を出発する。
千三百七十一年(建徳二年/応安四年)五月に、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は中国地方・安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠ら安芸国人衆を招集し、次いで十二月に九州へ渡り豊前へ至っている。
了俊(りょうしゅん)は周防・長門の大内弘世(おおうちひろよ)、義弘(よしひろ)父子らの協力も得て新興の国人勢力と連絡し、豪族・阿蘇惟村(あそこれむら)の協力を得て豊後に嫡男の今川貞臣(いまがわさだおみ)を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませる。
弟の今川仲秋(いまがわなかあき)は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊(りょうしゅん)自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。
千三百七十一年(文中元年/応安五年)六月、了俊(りょうしゅん)は南朝方・懐良親王(かねながしんのう)、菊池武光(きくちたけみつ)らを筑後高良山(現・福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。
この後、九州に於ける南北朝対決の戦局は肥後へ移り、千三百七十四年(文中三年/応安七年)七月、了俊(りょうしゅん)は水島(現・熊本県菊池市)まで出兵した。
千三百七十五年(天授元年/永和元年)、了俊(りょうしゅん)は水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世(おおともちかよ)、筑前の少弐冬資(しょうにふゆすけ)、大隅の島津氏久(しまづうじひさ)らの来援を呼びかける。
三人衆の内、唯一九州探題と対立していた少弐冬資(しょうにふゆすけ)は着陣を拒んだが、島津氏久(しまづうじひさ)の仲介で来陣した。
了俊(りょうしゅん)は水島の陣に於いて、獅子身中の虫なる危険を孕む冬資(ふゆすけ)を宴の最中に謀殺する挙に出る。
この水島の変により面子を潰された島津氏久(しまづうじひさ)は離反して帰国、島津氏は了俊(りょうしゅん)の九州経営に抵抗するようになった。
また、大友親世(おおともちかよ)も探題に対して嫌疑を抱き、了俊(りょうしゅん)への支援を止めてしまった。
九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった周防・長門の守護・大内氏に協力を要請する。
これに対して大内弘世(おおうちひろよ)は難色を示したが、子の大内義弘(おおうちよしひろ)は了俊(りょうしゅん)を支持し、九州に援軍を派遣している。
また、大内義弘(おおうちよしひろ)の援軍を派遣により、大内氏と婚姻関係の在った大友親世(おおともちかよ)も、消極的では在ったが北朝方に帰順した。
水島の変から二年後の千三百七十七年(天授三年/永和三年)、了俊(りょうしゅん)は菊池武朝(きくちたけとも)・阿蘇惟武(あそこれたけ)ら南朝勢力と肥前蜷打(現・佐賀市高木瀬)で激突する。
この肥前蜷打の戦いは北朝方・九州探題の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取っている。
蜷打の戦い以降、了俊(りょうしゅん)は再び南朝方に対する攻勢を強め、千三百八十一年(弘和元年/永徳元年)には菊池武朝(きくちたけとも)を本拠地・隈部城から追放している。
南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対して了俊(りょうしゅん)は、五男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年十月に帰順させている。
千三百九十一年(元中八年/明徳二年)に八代城の名和顕興(なわあきおき/名和長年の孫)と征西大将軍・良成親王を降伏させ、千三百九十二年(元中九年/明徳三年)の南北朝合一を機に菊池武朝(きくちたけとも)と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。
但し、南北朝合一後も氏久の息子・元久と対立、了俊(りょうしゅん)は千三百九十四年(応永元年)に四男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任された為、島津氏討伐は失敗に終わった。
外交では懐良親王(かねながしんのう)を指すとされている「日本国王良懐」を冊封する為に派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍・足利義満の手に委ねた。
また、朝鮮半島・高麗の使者・鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、千三百九十一年(元中九年)に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。
千三百九十五年(応永二年)七月、了俊(りょうしゅん)に上京の命が下り、同年八月に上京する。
ところが、上京した了俊(りょうしゅん)は幕府から九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として、了俊(りょうしゅん)の前探題だった渋川義行(しぶかわよしゆき)の次男・渋川満頼(しぶかわみつより)が任命された。
南北朝合一を達成して将軍権力を確立した第三代将軍・足利義満が、了俊(りょうしゅん)の九州に於ける勢力拡大や独自の外交権を危険視していた事が推測される。
了俊(りょうしゅん)は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の今川仲秋(いまがわなかあき)、甥の今川泰範(いまがわやすのり)と分割統治する事となった。
了俊(りょうしゅん)は守護職として駿河の統治に専心した。
千三百九十九年(応永六年)、大内義弘が堺で挙兵し、応永の乱が起こっている。
この千三百九十九年(応永六年)、了俊(りょうしゅん)鎌倉公方・足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。
応永の乱平定後の千四百年翌(応永七年)には関東管領・上杉憲定(うえすぎのりさだ)に対して了俊(りょうしゅん)追討令が出される。
しかし、了俊(りょうしゅん)は上杉憲定(うえすぎのりさだ)や甥の今川泰範(いまがわやすのり)の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、千四百二年(応永九年)には上洛し、政界に関与しない事を条件に赦免された。
この今川一族が、遠江国と駿河半国の守護地を営々と守り、戦国時代に至って今川義元(いまがわよしもと)を排出している。
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