将軍申次役・伊勢盛定(いせもりさだ)
伊勢氏は源氏流・足利氏の根本被官(代々家臣の出)の一族である。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の建武の新政(けんむのしんせい)に乗じて北朝・室町幕府を成立した足利尊氏(あしかがたかうじ)に仕えた伊勢貞継(いせさだつぐ)の系統が室町幕府政所執事を出す京都伊勢氏となる。
その伊勢本宗家・伊勢貞継(いせさだつぐ)の弟・盛経(もりつね)の系統の備中・伊勢氏は将軍の近習や申次衆を出していた。
将軍申次役や申次衆は、室町幕府の幕閣である政所執事や管領に次ぐ将軍の側近政務官僚である。
尊卑分脈の伊勢氏系図によると伊勢盛定(いせもりさだ)は備中・伊勢氏惣領・伊勢盛綱の四男であり、長男の盛富(もりとみ)が備中伊勢氏の惣領と推定される。
盛富(もりとみ)は父と同じ肥前守となり、備中守となった盛定(もりさだ)は兄と所領を分かち備中荏原郷(岡山県井原市)を領し高越山城主になった。
京都伊勢氏の貞親(さだちか)は千四百五十四年(享徳三年)に備中守から伊勢守に転じており、義兄弟になった盛定(もりさだ)に伊勢氏にとって重要な意味のある備中守を譲った。
伊勢本宗家・伊勢貞親(いせさだちか)は、千四百六十年(長禄四年)頃に備前守に転じている。
備中守は、貞親(さだちか)の弟・貞藤(さだとう/江戸時代以来、早雲の父と考えられていた)が継承している。
伊勢盛定(いせもりさだ)は備中伊勢氏惣領の兄・盛富(もりとみ)と並んで将軍申次を勤め、一族内でも重要な地位を占めていたと考えられている。
盛定(もりさだ)の名は畠山氏・畠山義就(はたけやまよしひろ)との交渉=千四百五十五年(享徳四年)や千四百六十年(長禄四年)の近江守護六角氏・六角政堯(ろっかくまさたか)追放事件、千四百六十三年(寛正四年)、幕府から追討命令を受けた信濃国人・高梨政高(たかなしまさたか)の赦免の交渉などの記録に見える。
これらの記録から、盛定(もりさだ)は八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の時代に幕政の中枢にあった貞親(さだちか)を外交交渉の面で補佐する立場にあったと考えられる。
千四百六十六年(文正元年)、「文正の政変」と呼ばれる斯波氏・斯波義廉(しばよしかね)の廃嫡問題を巡って貞親(さだちか)は将軍継嗣の足利義視(あしかがよしみ)と対立する。
伊勢本宗家・貞親(さだちか)は、「足利義視(あしかがよしみ)の暗殺を企てた」と糾弾されて臨済宗の僧・季瓊真蘂(きけいしんずい)、斯波義敏(しばよしとし)、赤松氏・赤松政則(あかまつまさのり)らと共に京都を出奔する事件が起き、盛定(もりさだ)はこれに同行している。
この斯波義廉(しばよしかね)の廃嫡問題に盛定(もりさだ)が深く関与し、斯波氏が守護に就いていた遠江の国人の堀越・今川氏や横地氏、勝間田氏の申次として連絡を取って居た。
根拠として、応仁の乱が起こると遠江は早々に貞親(さだちか)が支持する斯波義敏(しばよしとし)の支配下になった点が指摘されている。
この伊勢盛定(いせもりさだ)の娘が、北川殿として駿河・今川氏に嫁いだ事から伊勢氏と今川氏とに縁(えにし)ができ、盛定(もりさだ)の子・新九郎盛時(しんくろうもりとき)が後北条家の祖となる。
伊勢本宗家・伊勢貞親(いせさだちか)は将軍の赦免を受けて京都へ復帰し、千四百六十七年(応仁元年)に応仁の乱が起こる。
駿河守護の今川義忠(いまがわよしただ)は上洛して花の御所に入り、東軍に属した。
義忠(よしただ)は貞親(さだちか)の屋敷をしばしば訪れており、盛定(もりさだ)は本宗家と今川氏との申次を務めた。
その申次の縁で、盛定(もりさだ)の娘・北川殿が義忠(よしただ)の妻となったと考えられる。
以前、北条早雲(伊勢新九朗)が伊勢素浪人と考えられていた時期の日本史解釈では、北川殿は側室とされていた。
だが、将軍近臣の備中伊勢氏と今川氏とは家格に遜色がなく、現在では北川殿は正室と考えられており、結婚の時期は応仁元年頃と推定されている。
盛定(もりさだ)の娘・北川殿は千四百七十一年(文明三年)に嫡男・龍王丸(今川氏親/いまがわうじちか)を生んだ。
伊勢盛定(いせもりさだ)の所領・備中荏原郷(岡山県井原市)で、千四百七十一年(文明三年)に発給された文書に新九郎盛時(しんくろうもりとき)の署名がある。
この時期、新九郎盛時(しんくろうもりとき)は京都で活動する父・盛定(もりさだ)に代わって所領の備中荏原郷(えばら)の支配を行っていたようだ。
千四百七十六年(文明八年)、今川義忠(いまがわよしただ)は遠江で横地氏、勝間田氏と戦い勝利するが、帰路に残党に襲われて討ち死にした。
従来、横地氏と勝間田氏は西軍の斯波義廉(しばよしかね)に内応した為に義忠(よしただ)がこれを討ったとされていた。
だが、近年の研究によって、これ以前から義忠(よしただ)は東軍の斯波義寛(義敏の子)の遠江の被官の国人と戦っている事が明らかになっていて、義忠(よしただ)は同じ東軍と戦っていた事になる。
この際に盛定(もりさだ)は、婿の義忠(よしただ)ではなく横地氏、勝間田氏を支援していたと考えられている。
幼少の今川龍王丸に対して不安を持った家臣の一部が今川義忠(いまがわよしただ)の従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)を擁立して家督争いが起こった。
ここで、盛定(もりさだ)の娘・北川殿の弟・伊勢新九郎(盛時)が駿河に下向して、龍王丸成人まで小鹿範満(おしかのりみつ)を家督代行とする事で内紛の調停を成功させている。
後の北条早雲(伊勢新九郎)の最初の活躍とされる事件だが、近年、伊勢新九郎(盛時)の父・盛定(もりさだ)が幕府の重要な地位にあった事が近年明らかになった。
その事で、伊勢新九郎(盛時)は盛定(もりさだ)の代理として幕府の意向を受けて駿河下向したと言う説が有力になりつつある。
今川氏の家督争いで浮上した小鹿範満(おしかのりみつ)は関東管領・上杉氏の一族(上杉政憲)の娘を母としており、関東管領の影響力が駿河に及ぶのを幕府が嫌った。
この為、幕府(東軍)と敵対関係にあった義忠(よしただ)の子の龍王丸だが、幕府が龍王丸支持に切り替えて、龍王丸の叔父にあたる伊勢新九郎(盛時)を派遣したと言う説を出している。
一方、歴史書・軍記物の「鎌倉大草紙」に記した今川氏の家督争いについて、伊勢新九郎(盛時)の活動が見られない事から新九郎の調停の実在に疑問を呈する説もある。
その後、伊勢新九郎(盛時)は駿河から京へ戻り、千四百八十一年(文明十五年)に九代将軍・足利義尚(あしかがよしなお)の申次衆になっている。
千四百八十七年(文明十九年)に、伊勢新九郎(盛時)は再び駿河へ下向して小鹿範満(おしかのりみつ)を討ち今川龍王丸を家督に就かせた。
千四百九十三年(明応四年)、宗瑞(盛時が出家)は伊豆へ乱入して堀越公方・足利茶々丸を討っている。
伊勢宗瑞(盛時が出家)の堀越公方(ほりこしくぼう)・足利茶々丸に対する下克上・伊豆奪取事件は、戦国時代の幕開けとされる事件である。
近年の研究では、この事件は中央で起こった管領・細川政元が十代将軍・足利義材を追放して茶々丸の弟の足利義遐(あしかがよしとお)を将軍に据えた「明応の政変」に連動して起こったとする説が有力である。
【北条早雲(ほうじょうそううん/伊勢新九郎盛時)】に続く。
【第二巻・第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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