伊予水軍・河野氏
この越智氏(おちうじ)が、実は穂積氏や穂積系鈴木氏の祖・物部氏と同系となるのは、越智氏と物部氏が同じニギハヤヒ(饒速日之)ノ命の後裔とされるからである。
文武天皇の時代に越智玉興(おちのたまこし)が伊予大領となり、その弟・玉澄が伊予国温泉郡(風早郡?)河野郷に住んで河野氏を名乗り、「祖になった」と伝えられる。
その伝承の真偽は詳らかではないが、かなり古くから河野郷に根差した土着の氏族で在った事は否定できない。
九百三十九年(天慶二年)の平将門(たいらのまさかど)の乱に、僅かに遅れるほぼ同時期の九百四十一年(天慶四年)に藤原純友の乱が起こり、河野好方が純友を九州の博多に滅ぼして天下に名を現わしている。
以来河野氏は、伊予水軍の将として知られる様になった。
その後、河野氏がよくその名を歴史に現わす様になるのは、平安末期から鎌倉期である。
千百八十年(治承四年)、源頼朝が伊豆国三島大社で挙兵するや、それに呼応して、河野通清・通信父子が風早郡・高縄山(現・愛媛県松山市)に兵を挙げた。
そして、河野通信は源氏の将・源義経に従って屋島の戦いに参戦、その後壇ノ浦の戦いに平家に反旗を翻した水軍・松浦(まつら)党と連携して平氏討伐の功を挙げる。
平氏討滅の戦で戦功を挙げた河野氏は、その恩賞として所領を安堵され、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職を与えられ鎌倉御家人衆の端に名を連ねた。
直属の上司・義経の死後は棟梁の頼朝に従い、鎌倉幕府の一員として四国に大きな勢力基盤を形成するに到る。
しかし河野氏は、鎌倉幕府初期に起こった「承久の乱」に際して後鳥羽上皇に与した河野通政と北条政子主導の幕府方に属した河野通久との二家に分かれて争っている。
河野通政は、伊予高縄城で幕府軍を迎えたが攻め破られ、幕府方・通久家を除き、河野一族全ての所領を失った。
その後、河野氏再興の機会が、「蒙古襲来」と言う異変で突如訪れる。
千二百八十一年(弘安四年)の弘安の役(蒙古襲来)で、水軍を率いて活躍した河野通久の孫・通有は河野氏の旧領を回復し、ふたたび河野氏は伊予での勢力を取り戻した。
この頃には、河野氏から分かれた得能氏・土居氏など一族が伊予国内に蟠居し、村上・来島氏らと瀬戸内水軍の覇を競うようになった。
後醍醐天皇と足利尊氏の間に起こった「元弘・建武の争乱」に、河野宗家・河野通朝は足利尊氏に属した。
たが、河野一族の得能氏、土居氏等は宮方・新田義貞と行動を共にし、一族が二派に分かれる事になる。
そして南北朝並立期の騒乱の中、足利尊氏に従って活躍した河野通盛は伊予守護職に補人されるまでに河野氏の勢力を拡大した。
この河野通盛の時に本城は温泉郷の湯築城に移され、以後、その地が室町期から戦国末期まで続く河野氏の本拠となる。
その後の戦国期に於いて、河野氏は、宇都宮氏、西園寺氏とともに伊予戦国三武将と謳われたが、河野氏の勢力は次第に弱体化し、豊臣秀吉の四国征伐で滅亡する。
尚、神奈川県に多い相模国・河野氏は、伊予国・関山の出身になる河野氏の一族と伝えられ、河野通明の次男福良通豊の七男・関山民部丞通安は通明の嫡宗と伝えられる。
関山(河野)通安は、一遍上人に従って相模国当麻に時宗の無量光寺を開き土着し相模国・河野氏は相模国東郡当麻郷(相模原市)の地侍として関山氏や河野氏を名乗る。
従軍慰安婦問題の「河野談話」で著名な河野洋平官房長官(衆議院議長、副総理など暦任)は、相模国・河野氏である。
【伊予戦国三武将・宇都宮氏、河野氏、西園寺氏】
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