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玉木文之進(たまきぶんのしん)

玉木文之進(たまきぶんのしん)は、千八百十年(文化七年)九月二十四日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として萩で生まれる。

杉寅之助(吉田松陰/吉田家へ養子)の父・百合之助は長兄なので文之進(ぶんのしん)は叔父に当たる。

千八百二十年(文政三年)六月、十歳の文之進(ぶんのしん)は、家格では杉家より上にあたる大組士、四十石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。

文之進(ぶんのしん)は山鹿流の兵学を学び、同時に教育者として千八百四十二年(天保十三年)、松本村(現在の山口県萩市)に松下村塾を開いて、幼少期の杉寅之助(吉田松陰)を厳しく教育した。

日露戦争の英雄とされ著名な軍人・乃木希典(のぎまれすけ)も玉木家とは親戚で、乃木家とは代々交流が在り、希典(まれすけ)も文之進(ぶんのしん)の教育を受けている。

玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した分家だった。


千八百四十三年(天保十四年)、文之進(ぶんのしん)は大組証人役として藩に出仕するも、三十三歳と遅いお声掛かりだった。

千八百五十六年(安政三年)に、文之進(ぶんのしん)は吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたと伝わっている。

千八百五十九年(安政六年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。

しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより千八百六十年(万延元年)十一月に代官職を剥奪されている。

文之進(ぶんのしん)は、千八百六十二年(文久二年)に郡用方として復帰し、千八百六十三年(文久三年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年の内に当役(江戸行相府)に進む。

文之進(ぶんのしん)は藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家・厚狭毛利家・毛利親民の参謀を兼ね、千八百六十六年(慶応二年)の第二次長州征伐では萩の守備に務めた。

その後、文之進(ぶんのしん)は奥番頭にすすむが千八百六十九年(明治二年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に務めている。


乃木希典の父である乃木希次と文之進(ぶんのしん)は歳が近い上に性格も似ていたので、平素互いに推服していた為、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となり、玉木正誼(たまきまさよし)と名乗る。

ところが千八百七十六年(明治九年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼(たまきまさよし)や門弟の多くが参加したため、文之進(ぶんのしん)はその責任を取る形で先祖の墓の前、六十七歳で自害した。

文之進(ぶんのしん)自害後の玉木家は、玉木正誼の子・玉木正之が相続している。

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by mmcjiyodan | 2014-10-10 13:56  

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