品川弥二郎(しながわやじろう)
千八百五十七年(安政五年)、弥二郎(やじろう)は十四歳(数え十五歳)で松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受ける。
しかし僅か二年後の千八百五十九年(安政七年)、安政の大獄で師・松陰が刑死する。
弥二郎(やじろう)は高杉晋作(たかすぎしんさく)らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。
同じ松下村塾出身に在って弥二郎(やじろう)は、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(いのうえかおる)、伊藤俊輔(博文)らより地味な存在だが、倒幕活動にはコツコツと実績を積ん行く。
千八百六十四年(元治元年)の禁門の変では、弥二郎(やじろう)は八幡隊長として参戦し、後に太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
千八百六十五年(慶応元年)、木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力する。
幕府方残存勢力の掃討と成った戊辰戦争では、弥二郎(やじろう)は奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
明治維新後の千八百七十年(明治三年)、明治政府に出仕して高級官僚に成った弥二郎(やじろう)は渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学する。
視察留学から帰国した弥二郎(やじろう)は、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。
千八百八十四年(明治十七年)、弥二郎(やじろう)は維新の功により子爵を授けられる。
弥二郎(やじろう)は、千八百九十一年(明治二十四年)に第一次松方内閣の内務大臣に就任する。
ところが弥二郎(やじろう)は、次官の白根専一と共に警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者二十五人を出してしまう。
その死者を出した選挙干渉の経緯を非難され、弥二郎(やじろう)は引責辞職を余儀なくされる(ただし、辞職の経緯については別説が存在する)。
その後の弥二郎(やじろう)は、西郷従道(さいごうとしみち)と協力して政治団体・国民協会を組織する。
民間に在っては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも弥二郎(やじろう)は貢献している。
千九百年(明治三十三年)、品川弥二郎(しながわやじろう)は肺炎の為に五十八歳で死去した。
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