昭和大恐慌(しようわだいきょうこう)
第一次世界大戦中(千九百十四年~千九百十八年)の大正初期の日本は、戦時バブルの大戦景気に沸いた。
しかし終戦後、ヨーロッパの製品がアジア市場に戻って来ると、千九百二十年(大正九年)には戦後恐慌が発生する。
その戦後恐慌が終息に向おうとしていた千九百二十ニ年(大正十一年)には第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって銀行が抱えた不良債権が金融システムを招く銀行恐慌が発生する。
銀行恐慌は一時収束するものの、千九百二十三年(大正十二年)九月には関東大震災が起こって再び恐慌に陥った。
この震災恐慌時、被災地の企業の振り出した手形を日銀が再割引して震災手形としたが、返って事態の悪化をまねく結果になった。
もう一つの恐慌の要因として、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。
戦時バブルの最中の千九百十七年(大正六年)九月、日本は米国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。
実は、日本ではその後の戦後処理が問題で、米国は、大戦直後の千九百十九年(大正八年)には早くも金輸出を解禁し、金本位制に復帰した。
しかし日本は、大戦後の千九百十九年(大正八年)末には内地・外地あわせて正貨準備が二十億四千五百万円に昇り、国際収支も黒字で在ったにも関わらず金解禁を行わなかった。
千九百ニ十年代には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されて行く。
国際金本位制のネットワークに因り、世界経済は大衆消費社会をむかえ「永遠の繁栄」を謳歌していた米国の好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた。
日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺(うかが)った。
しかし千九百ニ十年代の日本経済は上述したように戦後恐慌、銀行恐慌、震災恐慌と慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、尚且つ立憲政友会が反対に回った事から金解禁に踏み切る事ができなかった。
さらに千九百ニ十七年(昭和二年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌(昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。
千九百ニ十八年(昭和三年)六月にはフランスも「五分の一切下げの新平価」による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、主要国では日本のみが残される。
この頃、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下した為、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった。
この時、立憲民政党の濱口雄幸内閣が成立し、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場し、金本位制の復帰を決断する。
新内閣は、日本製品の国際競争力を高める為に、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加える事で産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした。
この政策は、多くの中小企業に痛みを強いる解決策と言う側面を持っていた。
浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行う事によって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図る。
しかし日本政府の経済建て直しの最中、千九百ニ十九年(昭和四年)秋に米国であらたな恐慌が起き、世界中を巻き込んで世界恐慌に発展して行く。
この米国発の世界恐慌の影響が再び日本経済を襲い、千九百三十年(昭和五年)から翌千九百三十一年(昭和六年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れる。
それが、後に昭和恐慌(しょうわきょうこう)と呼ばれる戦前の日本において最も深刻な恐慌だった。
【高橋是清(たかはしこれきよ)】に続く。
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