二宮金次郎・尊徳(にのみやきんじろう・そんとく/たかのり)
通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまう事が多い。
また、諱(いみな)の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれる事が多い。
尊徳(そんとく/たかのり)は、「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した。
尊徳(そんとく/たかのり)は千七百八十六年(天明六年)に、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山/かやま)に百姓・利右衛門の長男・金治郎として生まれる。
金治郎が五歳の千七百九十一年(寛政三年)八月の初旬、南関東を暴風が襲った。
南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。
その影響で田畑は砂礫と化し、父・利右衛門の田畑も流失した。
十四歳の時、父・利右衛門が死去し、その二年後には母・よしも亡くなり、尊徳(そんとく/たかのり)は伯父・万兵衛の家に身を寄せる事となった。
伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、二十歳で生家の再興に成功する。
この頃までに尊徳(そんとく/たかのり)は、身長が六尺(約百八十センチ強)を超え、体重は九十四kg在ったと言う伝承もある。
尊徳(そんとく/たかのり)が住まいし当時の相模国栢山村(かやまむら)は小田原藩領(大久保氏)であった。
生家の再興に成功すると尊徳(そんとく/たかのり)は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。
奉公先の小田原藩家老・服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。
その才能を見込まれて、小田原藩主・大久保家の分家であった旗本・宇津家の知行所・下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の仕法(やり方/手法)を任せられる。
なお、真岡市の合併前の二宮町の町名は、尊徳(そんとく/たかのり)の功績に由来するものである
後に尊徳(そんとく/たかのり)は依頼され、東郷陣屋(同じく真岡市)に在って天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。
その方法は、尊徳(そんとく/たかのり)編み出した報徳仕法(財政再建策)として他の範となる。
その後、日光山領(一万石)の仕法(しほう・やり方/手法)を行う。
尊徳(そんとく/たかのり)に関しては多くの逸話が残っている。
事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話の多くは、弟子の富田高慶が著した尊徳(そんとく/たかのり)の伝記「報徳記」を由来としている。
ただし尊徳(そんとく/たかのり)は、幼少期の頃について全く語らなかった為、高慶は村人から聞いた話を記したとしており、高慶自身信憑性は保証できないとしている。
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皇統と鵺の影人
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