細川藤孝(ほそかわふじたか)
それで足利義昭(あしかがよしあき)は、せっせと有力大名に手紙を書いて信長包囲網を画策していた。
実はこの頃、信長は足利義昭(あしかがよしあき)の側近・細川藤孝(ほそかわふじたか)の内通により、十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の信長への背信行為を手に取る様に知っていた。
細川藤孝(ほそかわふじたか)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流に当たる血流の家柄である。
細川藤孝(ほそかわふじたか)は十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える幕臣で、和泉国・上半国の守護家としていた。
主君・足利義輝(あしかがよしてる)の死後は、十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の擁立に尽力する。
藤孝(ふじたか)は、明智光秀を通じて美濃・尾張国の織田信長に助力を求め、織田信長の武力を背景に入京して義昭の将軍任官に成功する。
しかしこの十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)、将軍の座が手に入ると信長を排除しょうと画策して密かに各地の有力大名に助勢を要請する。
側近・細川藤孝(ほそかわふじたか)の内通により、十五代将軍・足利義明(あしかがよしあき)の信長への背信を、信長は手に取る様に知っていた。
義昭と信長の対立が表面化すると、千五百七十三年(元亀四年)三月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。
山城桂川の西、長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡藤孝(ながおかふじたか)と名乗った。
千五百七十八年(天正八年)、信長の薦めによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(明智玉/ガラシャ)の婚儀がなる。
藤孝(ふじたか)は織田信長の命に従い、丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され丹後進攻に失敗する。
その後光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とし、丹後国・宮津十一万石の大名となる。
千五百八十二年(天正十年)に、親友で親戚でもある明智光秀が主君・信長を攻める本能寺の変を起こす。
藤孝(ふじたか)は、親友・光秀の再三の加勢要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に宮津十一万石の家督を譲った。
同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いに敗ている。
幽斎(藤孝)は、光秀に呼応しなかった功績を認められて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、千五百八十六年(天正十四年)に在京料として山城西ヶ岡に三千石を与えられた。
幽斎(藤孝)は千利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇されも、徳川家康とも親交があり、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去すると家康に接近する。
千六百年(慶長五年)六月、幽斎(藤孝)の長子・忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加する。
翌同年(慶長五年)七月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。
幽斎(藤孝)の田辺城は小野木重勝・前田茂勝らが率いる一万五千人の大軍に包囲される。
幽斎(藤孝)が指揮するわずか五百に満たない手勢だが籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかった事もあり、長期戦となる。
幽斎(藤孝)の弟子の一人だった八条宮智仁親王が後陽成天皇に奏請し、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれた。
幽斎(藤孝)の長子・忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得る。
この後、一時使用した長岡氏を細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。
その後の幽斎(藤孝)は京都吉田で悠々自適な晩年を送り、千六百十年(慶長十五年)八月、七十七歳で京都三条車屋町の自邸で死去した。
【細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)】に続く
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