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雑賀一揆(さいがいっき)

雑賀一揆は、戦国期の紀伊国雑賀地方で蜂起した一揆である。

紀伊国雑賀衆は、寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力だった。

雑賀衆には本願寺門徒が多く、鉄砲組を主とした強力な軍事力をもち,石山本願寺の戦いでは織田信長と対抗する存在の勢力だった。

つまり、将軍や大名などと言う支配を排して自治を行う共和国的存在で、治外法権の自治境内都市・「惣国」だった。

為に雑賀一揆は、信長の「天下布武(てんかふぶ)」と言う中央集権思想と真っ向から対立する惣国一揆や寺社勢力の解体を目的として信長が兵を差し向けた。


雑賀一揆は、石山本願寺を攻めあぐねていた信長により、千五百七十七年(天正五年)に本願寺兵主力の本拠地・雑賀攻めを始める。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ三万(計六万)の兵を投入して侵攻を開始した。

その陣容は、山手の軍勢には根来衆と寝返った雑賀三組を先導役として佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重・別所長治・同重宗である。

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。

これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

浜手の軍勢は滝川一益明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠北畠信雄神戸信孝織田信包である。

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。

千五百七十七年(天正五年)二月二十八日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。

同年三月一日、織田勢は平井の鈴木(雑賀)孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

その後、戦局は膠着状態となったが、鈴木(雑賀)孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら七人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加える事を条件に降伏を誓った。

それにしても本名・鈴木氏が、雑賀棟梁として襲名する雑賀孫市や雑賀孫一など、ほとんど同姓同名が存在する事実もあり、雑賀一揆に登場の孫一が、孫市と同一人物と言う確証もない。


だが雑賀衆は、半年も経ない内に再び挙兵し、信長と戦う事になる。

同千五百七十七年(天正五年)七月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。

八月十六日、井ノ松原(現海南市)において鈴木(雑賀)孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪・稲井秀次、岡本弥助らと戦い、これを撃破した。

同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に七万~八万人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。

翌千五百七十八年(天正六年)五月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を一ヵ月に渡り包囲攻撃したが、落城には至らなかった。

宮郷の太田城はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。

千五百八十年(天正八年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木(雑賀)孫一と土橋若大夫が対立するようになった。

千五百八十二年(天正十年)一月二十三日、鈴木(雑賀)孫一は土橋若大夫を暗殺した。

孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。

土橋派は若大夫の遺児五人を立てて抗戦したが、雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。

信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。


本当の紀州平定は、本能寺の変を挟んで雑賀一揆から八年後の千五百八十五年(天正十三年)豊臣秀吉の紀州征伐(きしゅうせいばつ)によって解体された。

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by mmcjiyodan | 2015-03-06 01:22  

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