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筒井順慶(つついじゅんけい)(二)

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千五百七十七年(天正五年)、筒井順慶(つついじゅんけい)は他の諸将と共に雑賀一揆の鎮圧「紀州征伐」に参加する。

同千五百七十七年(天正五年)、松永久秀(弾正)が信長に対して再度謀反を起こすと、順慶(じゅんけい)は信貴山城攻めの先鋒を務めている。

手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われ、十月十日、遂に城は陥落、久秀父子は自害して果てた。

信貴山城陥落については、順慶(じゅんけい)が石山本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと「大和軍記」は伝えている。

また、「大和志科」は、久秀(弾正)の遺骸を順慶(じゅんけい)が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。

但し「和洲諸将軍伝」にも、久秀(弾正)の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があり、ここでは久秀(弾正)の遺骸を回収し葬った人物は公家・羽林家の「入江大五良」と書かれている。

久秀(弾正)父子の滅亡もあって、同千五百七十八年(天正六年)に信長の大和平定が果たされた。

同千五百七十八年(天正六年)に、順慶(じゅんけい)は信長の命令により龍王山城を破却している。

同千五百七十八年(天正六年)四月、順慶(じゅんけい)は播磨攻めに参戦し、六月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。

帰国後の十月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を順慶(じゅんけい)は鎮圧している。

千五百七十九年(天正七年)には、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めにも順慶(じゅんけい)は参加した。

千五百八十年(天正八年)、順慶(じゅんけい)が居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていた所に、信長より本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。

順慶(じゅんけい)は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。

筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。

同千五百八十年(天正八年)、やはり信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。

これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かつて松永久秀(弾正)に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎(とが)で明智光秀らの主導で処断された。

翌千五百八十一年(天正九年)に順慶(じゅんけい)は、かねてより確執があった大和郡山城主・吐田遠秀(はんだひでとう)を闇討ちにして葬っている。

同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に信長次男・織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻する。

順慶(じゅんけい)は三千七百の手勢を指揮し、蒲生氏郷(がもううじさと)と共に比自山の裾野に布陣するも、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。

この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶(じゅんけい)の窮地を救ったと言われる。


千五百八十二年(天正十年)六月二日、明智光秀が信長を討ち取った「本能寺の変」が起こった。

順慶(じゅんけい)は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行う。

光秀は順慶(じゅんけい)が信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。

その為、光秀からは変の後即座に味方になるよう誘われた。

順慶(じゅんけい)は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。

その後も評定を重ね、一度河内へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。

六月十日には、順慶(じゅんけい)は誓紙を書かせて羽柴秀吉(豊臣秀吉)への恭順を決意した。

同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶(じゅんけい)はこれを追い返している。

十一日には、順慶(じゅんけい)が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。

光秀は親密な関係にあった順慶(じゅんけい)の加勢を期待して洞ヶ峠に布陣し順慶(じゅんけい)の動静を見守ったが、順慶(じゅんけい)は静観の態度を貫徹した。

洞ヶ峠への布陣は、順慶(じゅんけい)への牽制、威嚇であったとも解釈されている。

光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶(じゅんけい)が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという。

以後、所謂「洞ヶ峠の故事」が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。


結局光秀は十三日に山崎で合戦となり、秀吉方と刃を交えて敗死する。

光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待して居た。

だが、十八万石(大和の与力を合わせ四十五万石)の順慶(じゅんけい)と十二万石の細川藤孝(ほそかわふじたか/幽斎)は伴に名門で、この二大名に背かれた事は、その兵力もさる事ながら、他の大名への影響力も大きく、光秀には致命傷となった。


十四日、順慶(じゅんけい)は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉(とよとみひでよし)に拝謁する。

この際、秀吉は順慶(じゅんけい)の遅い参陣を叱責したと言う。

「多聞院日記」は、秀吉の叱責によって順慶(じゅんけい)が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させたと言う話を伝えている。

二十七日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶(じゅんけい)は他の武将達と共に列席している。

七月十一日には、秀吉への臣従の証として、順慶(じゅんけい)は養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。

光秀死後、順慶(じゅんけい)は秀吉の家臣となり大和の所領は安堵された。

順慶(じゅんけい)は、千五百八十四年(天正十二年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦する。

この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく順慶(じゅんけい)は三十六歳の若さで病死した。

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by mmcjiyodan | 2015-03-06 01:50  

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