相伴衆(しょうばんしゅう)
管領家の一族や有力守護大名に限定されていた為、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映され、相伴衆(しょうばんしゅう)は管領に次ぐ席次を与えられるようになった。
将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は第三代将軍・足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は第六代将軍・足利義教の永享年間であると推定されている。
即ち室町幕府全盛期の「相伴衆(しょうばんしゅう)」と言えば下記の七家の当主を指していた。
〔一〕但馬・備後・安芸の守護、山名氏。
〔二〕侍所所司、四職家、丹後・伊勢・三河の守護、一色氏。
〔三〕侍所所司、四職家、能登の守護、畠山氏(匠作家・清和源氏系)。
〔四〕阿波の守護、讃州細川氏(細川氏支流)。
〔五〕播磨・備前・美作の守護、赤松氏。
〔六〕侍所所司、四職家、出雲・隠岐・飛騨の守護、京極氏。
〔七〕侍所所司、四職家、周防・長門・豊前・筑前の守護、大内氏。
このうち「宗五大草紙」等に於ける格式・礼式の規定を見ると、赤松・京極・大内の三家は相伴衆中では下位に位置づけられていたようである。
更にこれとは別に将軍家に近い公家が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例があった。
永正の錯乱の際に第十一代将軍・足利義澄に従って京都を脱出した日野高光、出家隠遁した冷泉為広、妻の実家・今川氏に逃れた正親町三条実望は義澄の相伴衆(しょうばんしゅう)であったという。
戦国時代に入ると、朝倉孝景や北条氏康、尼子晴久、斎藤義龍、毛利元就、毛利隆元、今川氏真、大友義鎮、伊東義祐(日向伊東氏)、河野通直 (弾正少弼)など在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例も増える。
地方在住の大名が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例が増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる。
一方で武田信玄から追放されて京都へ居を移した信玄の父・武田信虎が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる事例もあった。
また、本来は細川氏の家臣であった三好長慶が第十三代将軍・足利義輝より相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられてその身分的権威をもって管領の役職を代行して幕政の実権を握り、さらに長慶の子の三好義興も任じられた。
職制としての相伴衆(しょうばんしゅう)には室町時代のみであるが、戦国時代から江戸時代初期に見られる御伽衆は、しばしば相伴衆とも呼ばれ、将軍(あるいは大名)に仕えた似たような役職である。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
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