足利義輝(あしかがよしてる・十三代将軍)
義輝(よしてる)は千五百三十六年(天文五年)三月十日、第十二代代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の嫡男として東山南禅寺で生まれる。
義輝(よしてる)の幼名は菊童丸と言い、誕生直後に外祖父・近衛尚通(このえひさみち)の猶子となる。
この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴(よしはる)はその度に敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸(義輝)もそれに度々従った。
その後も父・義晴(よしはる)と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。
千五百四十六年(天文十五年)十二月、菊童丸(義輝)はわずか十一歳にして、父・義晴(よしはる)から将軍職を譲られる。
父・義晴(よしはる)がかつて十一歳で元服・将軍宣下を行った事に加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。
この時の将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ/義輝)と名乗った。
千五百四十八年(天文十七年)、流浪の将軍・義藤(よしふじ/義輝)は管領・細川晴元と和睦して京に戻った。
この時、管領・細川晴元も義藤(よしふじ/義輝)の将軍就任を承諾している。
ところが、管領・細川晴元の家臣で、畿内に大勢力を築きつつあった三好長慶が細川晴元を裏切って細川京兆家(管領家)の家督を争っていた細川氏綱(ほそかわうじつな)の陣営に転じてしまう。
千五百四十九年(天文十八年)六月、江口の戦いで三好長慶に敗れた管領・細川晴元によって足利義晴・義藤(義輝)父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。
千五百五十年(天文十九年)五月、前将軍・義晴(よしはる)が常在寺にて死去する。
将軍・義藤(義輝)は父・義晴(よしはる)が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま十一月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。
千五百五十二年(天文二十一年)一月、細川氏綱(ほそかわうじつな)を管領にするという妥協条件で義藤(義輝)は三好長慶と和睦し、京に戻った。
ただし義藤(義輝)は将軍とは有名無実で、三好長慶とその家臣・松永久秀(弾正)の傀儡であった。
翌千五百五十三年(天文二十二年)に、義藤(義輝)は細川晴元と協力して三好長慶との戦端を開くも敗退し、再び近江朽木へ逃れ、以降五年間をこの地で過ごした。
尚、朽木へ亡命中の千五百五十四年(天文二十三年)二月十二日、将軍・義藤は名を義輝に改めている。
千五百五十八年に年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた将軍・義輝(よしてる)は改元を知るのに三ヵ月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続ける事となり、朝廷に抗議している。
千五百五十八年(永禄元年)五月、将軍・義輝(よしてる)は六角義賢(承禎)の支援で細川晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺(うかが)う。
翌六月、将軍・義輝(よしてる)は如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。
この「北白川の戦い」は、一時期は六角義賢の支援を受けた足利方が優勢であった。
だが、三好長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られた為に戦況は思うように展開しなかった。
千五百五十八年(永禄元年)十一月、六角義賢の仲介により三好長慶との間に和議が成立した事に伴って、五年ぶりに将軍・義輝(よしてる)の入洛が実現し、幕府政治が再開される。
千五百五十八年(永禄元年)十二月二十八日には、将軍・義輝(よしてる)は伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。
三好長慶はさらに権勢を誇り、幕府の御相伴衆(しょうばんしゅう)に加えられ、さらに修理大夫に推挙されたが、同時に臣下として幕府機構に組み込まれる事となった。
入洛(都入り)した将軍・義輝(よしてる)は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。
千五百四十八年(天文十七年)の伊達晴宗と稙宗、千五百五十八年(永禄元年)の武田晴信と長尾景虎、千五百六十年(永禄三年)の島津貴久と大友義鎮や毛利元就と尼子晴久、千五百六十三年(永禄六年)の毛利元就と大友宗麟、千五百六十四年(永禄七年)の上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。
また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀(弾正)には桐紋使用を許した。
さらに自らの名・足利(義藤)義輝の偏諱(一字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。
例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。
また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。
将軍・義輝(よしてる)の、その戦国大名を懐柔する政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」と評された。
このような経緯を経て、義輝(よしてる)は次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁、大友宗麟は鉄砲を献上している。
永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いが起きていた。
将軍・義輝(よしてる)はこの両者の争いを調停し、千五百五十八年(永禄元年)には武田信玄を信濃守護に補任する。
だが、武田信玄はさらに長尾景虎(上杉謙信)の信濃撤退を求めた為、将軍・義輝(よしてる)は長尾景虎(上杉謙信)の信濃出兵を認める。
千五百六十一年(永禄四年)には武田信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。
また相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斉藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。
千五百五十八年(永禄元年)の義輝(よしてる)の帰京以降も三好長慶の権勢は続いた。
その三好長慶に反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起した「久米田の戦い」で、一族の三好実休が戦死、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。
こうした中、千五百六十二年(永禄五年)、三好長慶と手を結び幕政を壟断していた政所(まんどころ)執事の伊勢貞孝が長慶と反目する。
将軍・義輝(よしてる)は三好長慶を支持して伊勢貞孝を更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。
これに激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしたが、九月に三好長慶の手で討たれた。
これによって、将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、将軍による政所掌握への道を開いた。
千五百五十九年(永禄二年)、将軍・義輝(よしてる)は大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。
大友氏の任命は、元々九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していた為の補任である。
この時大友家は、九州において足利将軍家に最も親しい有力守護大名で、この時大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた。
千五百六十四年(永禄七年)七月に三好長慶が病死する。
長年の政敵・三好長慶が滅し、義輝(よしてる)はこれを好機として、いよいよ中央に於いても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。
しかし、三好長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀(弾正)と三好三人衆にとっては、そのような義輝(よしてる)は邪魔な存在であった。
松永久秀(弾正)と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義輝(よしてる)を排除して、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。
一方で将軍・義輝(よしてる)が頼みとする近江国・六角氏は千五百六十三年(永禄六年)の観音寺騒動(家中お家騒動)以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
千五百六十五年(永禄八年)五月十九日、松永久秀(弾正)と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じて「永禄の変」と呼ぶ謀叛を起こし、二条御所を軍勢を率いて襲撃した。
将軍・義輝(よしてる)は名刀三日月宗近等を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、数え年齢三十歳で殺害された。
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