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ジョン万次郎(中浜万次郎)

一介の漁師でありながら、漂流者から日本の近代化に大きく貢献した人物・ジョン万次郎(まんじろう)が居る。

万次郎(まんじろう)は、千八百二十七年(文政十年)、土佐の国(高知県土佐清水市中浜)の漁師の子として産まれた。

千八百四十一年(天保十二年)、十四歳だった万次郎(まんじろう)は仲間の漁師四人と出漁中に遭難し、伊豆諸島の無人島・鳥島(とりしま)に漂着する。

万次郎(まんじろう)達四人は、無人島・鳥島(とりしま)漂着後百四十三日生き延び、通り掛かった米国捕鯨船ジョン・ハラウンド号に救出される。

当時日本は鎖国状態だった為、ジョン・ハラウンド号は日本に寄港出来無い為、年配の三人は寄港先のハワイ島に降ろされる。

ただ、年少だった万次郎(まんじろう)は、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて航海への帯同を許される。

同千八百四十一年(天保十二年)、アメリカ本土に渡った万次郎(まんじろう)は、マサチューセッツ州の船長の自宅に連れられて行く。

万次郎(まんじろう)はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、千八百四十三年(天保十五年)にはオックスフォード学校に学ぶ。

翌千八百四十四年(弘化元年)に万次郎(まんじろう)は、バーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

万次郎(まんじろう)は、千八百四十六年(弘化三年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活する。

千八百五十年(嘉永三年)五月、万次郎(まんじろう)は日本に帰る事を決意し、帰国の資金を得る為にサンフランシスコへ渡り、金の採掘で得た六百ドルの資金を持ってハワイ島ホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。

千八百五十年十二月十七日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せてホノルルを立ち日本へ向け出航した。

千八百五十一年(年嘉永四年)二月二日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られる。

海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。

薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩々主・島津斉彬(しまづなりあきら)は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問する。

藩主・斉彬(なりあきら)の命により、万次郎(まんじろう)は藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。

斉彬(なりあきら)は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。

万次郎(まんじろう)ら四人は長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。

長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でない事を証明し、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。

高知城下に於いて、土佐藩執政・吉田東洋(よしだとうよう)らにより出身藩での取り調べを受けた後、漂流から十一年目にしてようやく故郷に帰る。

その取り調べの際に万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍(かわだしょうりょう)は万次郎の話を記録し、後に「漂巽紀略」を記している。

その後、河田小龍(かわだしょうりょう)が記した「漂巽紀略・五巻」は、十五代土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ/容堂)に献上される。

同書「漂巽紀略・五巻」が江戸に持ち込まれると諸大名間で評判になり、万次郎(まんじろう)の運命はまたも切り開かれる。

千八百五十三年(嘉永六年)、マシュー・ペリーの黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていた事から、万次郎(まんじろう)が幕府直参として取り立てられる事となった。

万次郎(まんじろう)は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。


余談だが、土佐国帰郷後すぐに、万次郎(まんじろう)は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。

この藩校「教授館」の教授時代、万次郎(まんじろう)は後藤象二郎岩崎弥太郎などを教えている。

また、万次郎(まんじろう)から得た河田小龍(かわだしょうりょう)の知識は、坂本龍馬(さかもとりょうま)に「貿易立国」を志させる切っ掛けとなった。

千八百六十年(万延元年)、
日米修好通商条約の批准書を交換する為の遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。

船長の勝海舟(かつかいしゅう)が船酔いが酷くまともな指揮を執れなかった為、万次郎(まんじろう)は代わって船内の秩序保持に努めた。

サンフランシスコに到着後、万次郎(まんじろう)は使節の通訳として活躍する。

また、万次郎(まんじろう)は帰国時に同行の福澤諭吉(ふくざわゆきち)と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

万次郎(まんじろう)は、千八百六十六年(慶応二年)には土佐藩・開成館教授、千八百六十七年(慶応三年)には薩摩藩教授を務めるも武力倒幕の機運が高まり江戸に戻った。

明治維新後の千八百六十九年(明治二年)、万次郎(まんじろう)は明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。

千八百七十年(明治三年)、万次郎(まんじろう)は普仏戦争視察団として大山巌(おおやまいわお)らと共に欧州へ派遣される。

その帰国の途上、万次郎(まんじろう)は米国にて恩人のホイットフィールド船長と再会し、身に着けていた日本刀を贈った。

欧州派遣から帰国後、万次郎(まんじろう)は軽い脳溢血を起こすも、数ヵ月後には日常生活に不自由しないほどに回復する。

時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、万次郎(まんじろう)は教育者としての道を全うした。

千八百九十八年(明治三十一年)、万次郎(まんじろう)は七十二歳で死去した。

千八百九十八年(明治三十一年)は、この年一月、第三次伊藤博文内閣成立も六月には総辞職、第一次大隈重信内閣成立(隈板内閣)するも十月総辞職、第二次山縣有朋内閣が成立するなど、政情不安定な年だった。


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by mmcjiyodan | 2015-04-24 15:46  

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