吉田東洋(よしだとうよう)
吉田東洋(よしだとうよう)は、江戸時代末期の土佐藩士(上士)で、東洋は号、諱は正秋である。
吉田家の出自は、藤原北家・秀郷流(俵藤太秀郷)の支流・香美郡夜須城主の吉田備後守重俊の孫の吉田俊政(孫助)とされる。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に仕えていたが、長宗我部氏滅亡後も在郷の名家ゆえに土佐一国を拝領してやって来た山内家初代・山内一豊(やまうちかつとよ)に上士として迎えられている。
父は土佐藩士・吉田光四郎正清、母は吉田正幸の娘。
室(妻)は藩士・後藤正澄の三女・琴で、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は義理の甥にあたる。
東洋(とうよう)は、千八百十六年(文化十三年)、土佐藩上士・吉田正清(馬廻格・二百石)の四男として高知城下帯屋町に生まれる。
千八百二十三年(文政六年)、東洋(とうよう)は庶兄の早世によって嗣子となる。
千八百三十七年(天保八年)、東洋(とうよう)は口論のすえに家僕を無礼討ちした事から蟄居する。
千八百四十一年(天保十二年)、父・正清の死去により東洋(とうよう)は吉田家の家督を相続する。
千八百四十二年(天保十三年)九月に、東洋(とうよう)は船奉行として出仕し、同年十一月には郡奉行に転じて民政に携わる。
藩主・山内豊熈(やまうちとよてる)の進める藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」設立を進言する。
千八百四十五年(弘化二年)、東洋(とうよう)は病により無役となったが、人事や法令改正、海防等の意見書である「時事五箇条」を提出する。
千八百四十七年(弘化四年)には、東洋(とうよう)は船奉行として再出仕する。
千八百四十八年八月二十三日(嘉永元年七月二十五日)、妻の兄弟・後藤正晴が病死すると、その遺児 後藤保弥太(のちの後藤象二郎(ごとうしょうじろう))を父親代わりになって養育する。
同千八百四十八年(嘉永元年)十二月、藩主・豊熈(とよてる)の死去に伴って東洋(とうよう)は無役となる。
千八百五十一年(嘉永四年)、東洋(とうよう)は近畿地方(上方)を遊歴し、伊勢国の漢学者・斉藤拙堂や京都の梁川星巌や頼三樹三郎らに会して見聞をひろげた。千八百五十三年(嘉永六年)七月、藩主・山内容堂(豊信)によって大目付に抜擢され、十二月には参政として強力に藩政改革を主導した。
千八百五十五年(安政三年)三月、東洋(とうよう)は参勤交代に伴って江戸へ出府して藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交を結ぶが、酒宴に於ける旗本殴打事件を引き起こして罷免される。
さらに東洋(とうよう)は、家禄を百五十石に減らされた上、帰郷して隠居する事を余儀なくされた。
帰郷後、東洋(とうよう)は高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)や乾(板垣)退助(いぬいたいすけ)、福岡孝弟、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)等の若手藩士に教授する。
やがて彼らが、「新おこぜ組」と称され藩内の一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。
千八百五十七年(安政四年)十二月に赦免された東洋(とうよう)は、新知行百五十石、役高三百石を給され、翌千八百五十八年(安政五年)年一月には参政として藩政に復帰する。
藩参政・吉田東洋(よしだとうよう)は法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。
しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党・武市瑞山(たけちずいざん/半平太)との政治的対立を生じさせる結果となる。
千八百六十二年五月(文久二年四月)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に待ち伏せされ、東洋(とうよう)は四十七歳で暗殺された。
この時、東洋(とうよう)の嫡男・正春(源太郎)はわずか十一歳で、東洋(とうよう)暗殺の二年後、母・琴も病死して正春(源太郎)は孤児となった為、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が引き取って育てた。
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