徳川家斉(とくがわいえなり)
家斉(いえなり)は千七百七十三年(安永二年)十月五日、御三卿の一つ、一橋家の当主・一橋治済の長男として生まれる。
千七百七十九年(安永八年)に第十代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基が急死、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかった。
その事から父・一橋治済と田沼意次の後継工作により、家斉(いえなり)は千七百八十一年(天明元年閏五月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉(いえなり)と称した。
千七百八十六年(天明六年)、将軍・家治(五十歳)の急死を受け、千七百八十七年(天明七年)に家斉(いえなり)は十五歳で第十一代将軍に就任した。
家斉(いえなり)は将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免する。
田沼意次に代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。
これは家斉(いえなり)が若年のため、家斉と共に第十一代将軍に目されていた松平定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとした。
千七百八十九年(寛政元年)、家斉(いえなり)は薩摩藩八代当主・島津重豪(しまづしげひで)の娘・近衛寔子(このえただこ/天璋院・篤姫)と結婚して居る。
老中首座・松平定信(まつだいらさだのぶ)が主導した政策を「寛政の改革」と呼ぶ。
「寛政の改革」では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉(いえなり)や他の幕府上層部から批判が起こる。
さらに「尊号一件」や「大御所事件」なども重なって次第に家斉(いえなり)と松平定信は対立するようになった。
家斉(いえなり)と松平定信の対立原因ともなった「尊号一件」とは、千七百八十九年(寛政元年)に時の光格天皇が実父・典仁親王に太上 (だいじょう) 天皇の尊号を贈りたい旨江戸幕府に希望した際、老中・松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するものとして拒否した一連の事件を言う。
また「大御所事件」とは、将軍・ 徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとした際、老中・松平定信が先例が無いとして否定した事件である。
千七百九十三年(寛政五年)七月、家斉(いえなり)は父・一橋治済と協力して松平定信を罷免し、寛政の改革は終わった。
ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換した事を示す事ではない。
家斉(いえなり)は松平定信の元で幕政に携わってきた三河吉田藩の第四代藩主・松平信明を老中首座に任命した。
これを戸田氏教、本多忠籌ら松平定信が登用した老中達が支える形で定信の政策を継続していく事になる。
この任用の為、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
千八百十七年(文化十四年)に松平定信から老中首座を引き継いだ松平信明が病死する。
老中首座・松平信明の病死を期に、他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出て来る。
この為、千八百十八年(文政元年)から家斉(いえなり)は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。
老中首座・水野忠成は、松平定信や松平信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。
さらに家斉(いえなり)自身も、うるさい宿老達が居無くなったのを良い事に贅沢(ぜいたく)な生活を送るようになる。
この徳川家斉(とくがわいえなり)の浪費癖と、追従した幕臣の収賄体質が江戸末期に於ける幕府の弱体化の初めの一歩だった。
また、異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大した為、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。
この財政再建の為に老中首座・水野忠成は、文政期から天保期にかけ八回に及ぶ貨幣改鋳・大量の悪貨を発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招く事になった。
千八百三十四年(天保五年)に老中首座・水野忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦(みずのただくに)がその後任となる。
しかし実際の幕政は家斉(いえなり)の側近である林忠英らが主導し、家斉(いえなり)による側近収賄政治はなおも続いた。
この徳川家斉(とくがわいえなり)の浪費癖と、追従した幕臣の収賄体質が、明治維新に於ける幕府の弱体化の初めの一歩だった。
この腐敗政治の為、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、千八百三十七年(天保八年)二月には大坂で大塩平八郎の乱が起こる。
さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。
また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった時期でもあった。
千八百三十七年(天保八年)四月、家斉(いえなり)は二男・家慶(いえよし)に将軍職を譲った。
しかし家斉(いえなり)は、家慶(いえよし)に将軍職を譲っても幕政の実権は大御所として握り続けた。
大御所・家斉(いえなり)の最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。
千八百四十一年(天保十二年)閏一月七日に、大御所・家斉(いえなり)は六十九歳で死去した。
家斉(いえなり)の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦(みずのただくに)に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。
そうして間部詮勝(まなべあきかつ)や堀田正睦(ほったまさよし)などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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