水野忠邦(みずのただくに)と天保の改革
忠邦(ただくに)は長兄の芳丸が早世した為、千八百五年(文化二年)に唐津藩の世子となり、二年後の千八百七年(文化四年)に第十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)と世子・家慶(いえよし)に御目見する。
忠邦(ただくに)は、千八百十二年(文化九年)に父・忠光が隠居した為、水野氏の家督を相続する。
忠邦(ただくに)は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、千八百十六年(文化十三年)に奏者番となる。
奏者番(そうじゃばん)は、大名や旗本が将軍に謁見するとき,姓名や進物を披露し,下賜物を伝達する取次ぎの役である。
忠邦(ただくに)は奏者番(そうじゃばん)以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負う事から唐津藩主では昇格に脈が無いと知る。
翌千八百十七年(文化十四年)九月、忠邦(ただくに)は家臣の諫言を押し切って、実封二十五万三千石の唐津藩から実封十五万三千石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させる。
この国替顛末に絡み、水野家々老・二本松義廉が忠邦(ただくに)に諌死をして果てている。
また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作の為の賄賂として使われたのではないかと言う疑念が生まれた。
この召し上げ天領、年貢の取立てが厳しかった事から、忠邦(ただくに)は後年までその地域の領民に恨まれている。
しかしこの国替えにより忠邦(ただくに)の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。
忠邦(ただくに)が幕府の重臣となった事で、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。
その後、忠邦(ただくに)は将軍・家斉(いえなり)の下(もと)で頭角を現し、千八百二十五年(文政八年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。
千八百二十六年(文政九年)に、忠邦(ただくに)は京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、文政十一年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶(とくがわいえよし)の補佐役を務めた。
千八百三十四年(天保五年)に老中・水野忠成(みずのただあきら/沼津藩々主)が病没した為、忠邦(ただくに)は代わって本丸老中に任ぜられる。
忠邦(ただくに)は千八百三十七年(天保八年)に勝手御用掛を兼ね、千八百三十九年(天保十年)に老中首座となった。
忠邦(ただくに)は、異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす現状に心を痛めていた。
一方、年貢米収入が激減し、一方で大御所政治のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府にも、忠邦(ただくに)は強い危機感を抱いていたとされる。
しかし将軍・家斉(いえなり)の在世中は、天保の三侫人(さんねいじん)と総称される水野忠篤、林忠英、美濃部茂育をはじめ将軍・家斉(いえなり)側近が権力を握っており、忠邦(ただくに)は改革を開始できなかった。
千八百三十七年(天保八年)四月に徳川家慶(とくがわいえよし)が第十二代将軍に就任し、ついで千八百三十一年(天保十二年)閏一月の大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免する。
忠邦(ただくに)は、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して「天保の改革」に着手した。
「天保の改革」では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。
農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じる。
また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。
その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとった為、物価引下げとは相反する結果をもたらした。
腹心の遠山景元(とうやまかげもと/金四郎)は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に「遠山の金さん」として語り継がれた。
千八百四十三年(天保十四年)九月に、上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした。
その上、腹心の鳥居耀蔵(とりいようぞう)が上知令反対派の老中・土井利位(どいとしつら)に寝返って機密文書を渡すなどした為、忠邦(ただくに)は閏九月十三日に老中を罷免されて失脚した。
改革はあまりに過激で、忠邦(ただくに)は庶民の怨みを買ったとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。
千八百四十四年(弘化元年)六月、江戸城本丸が火災により焼失する。
老中首座・土井利位(どいとしつら)は、その本丸再建費用を集められなかった事から将軍・家慶(いえよし)の不興を買った。
将軍・家慶(いえよし)は、同千八百四十四年(弘化元年)六月二十一日に外国問題の紛糾などを理由に忠邦(ただくに)を老中首座に再任した。
しかし忠邦(ただくに)は、重要な任務を任されるでもなく、欠勤、長期欠勤の後、千八百四十五年(弘化二年)に老中を辞職する。
老中・阿部正弘をはじめ、土井利位(どいとしつら)らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、忠邦(ただくに)は窮地に立つ。
同千八百四十五年(弘化二年)九月、忠邦(ただくに)は加増の内一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となる。
家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられ、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。
なお、この転封に際して、領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとした為に領民が怒り、大一揆を起こすも、その一揆は、新領主の井上氏が調停して鎮めている。
山形転封から六年、忠邦(ただくに)は千八百五十一年(嘉永四年)二月十日、満五十六歳で死去した。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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