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鳥居耀蔵(とりいようぞう)

鳥居耀蔵(とりいようぞう)は江戸時代の幕臣、旗本で、耀蔵(ようぞう)は通称、諱は忠耀(ただてる)である。

耀蔵(ようぞう)の実父は、大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎(はやしじゅっさい)である。

耀蔵(ようぞう)の父方の祖父・松平乗薀(のりもり)は小さいながらも大名で、美濃岩村藩三万石の第三代藩主だった。

耀蔵(ようぞう)は旗本・鳥居成純の長女・登与の婿として鳥居家の養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。

耀蔵(ようぞう)の弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。

千九百七十六年(寛政八年)十一月二十四日、耀蔵(ようぞう)は林述斎(はやしじゅっさい/林衡)の三男(四男説もある)として生まれる。

生母の前原氏は、側室であった。

千八百二十年(文政三年)、耀蔵(ようぞう)は二十五歳の時に旗本・鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、二千五百石を食む身分となる。

そして十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の側近として仕えた。

やがて家斉(いえなり)が隠居して徳川家慶(とくがわいえよし)が十二代将軍となる。

耀蔵(ようぞう)は老中である水野忠邦(みずのただくに)の「天保の改革」の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。

耀蔵(ようぞう)は、渋川敬直、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。

千八百三十八年(天保九年)、耀蔵(ようぞう)は江戸湾測量を巡って江川英龍(えがわひでたつ)と対立する。

この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになる。

耀蔵(ようぞう)は、翌年の「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」で渡辺崋山(わたなべかざん)高野長英(たかのちょうえい)ら蘭学者を弾圧する遠因となる。

だが近年の研究では、耀蔵(ようぞう)は単なる蘭学嫌いでは無かった事が明らかとなっている。

千八百四十三年(天保十四年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対している。

つまり耀蔵(ようぞう)は、蘭学の実用性をある程度認めていた事が判明している。

また、江戸湾巡視の際に耀蔵(ようぞう)と、江川英龍(えがわひでたつ)の間に対立があったのは確かである。

だが、元々耀蔵(ようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)は以前から昵懇の間柄である。

両者の親交は江戸湾巡視中や「蛮社の獄」の後も、耀蔵(ようぞう)が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いていた。


権力にしがみ付きたい現体制派の人間と、もぅ時代環境が次の体制を求めている事に気がついた革新派の人間との軋轢は、どの時代にも存在する。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)が仕掛けた「蛮社の獄」は、井伊直弼(いいなおすけ)が仕掛けた「安政の大獄」の前段として起こされた弾圧事件だった。

図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。

その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。

幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、太郎左衛門(たろざえもん)の韮山反射炉である。


実は耀蔵(ようぞう)は、江戸湾巡視や「蛮社の獄」の一年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めていた。

耀蔵(ようぞう)の危惧するところは、蘭学者の一部が幕政を批判する事で世論が倒幕に向かう事、或いは蘭学者の一部が外来船に内通する事を恐れたのではないか?

「蛮社の獄」は「戊戌夢物語」の著者の探索に事よせて「蘭学にて大施主」と噂されていた渡辺崋山(わたなべかざん)を町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪する。

更に、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を、耀蔵(ようぞう)が企図して起こしたとしている。

千八百四十一年(天保十二年)、耀蔵(ようぞう)は南町奉行・矢部定謙を讒言(ざんげん)により失脚させ、その後任として南町奉行となる。

矢部家は改易、矢部定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。

天保の改革に於ける耀蔵(ようぞう)の市中取締りは非常に厳しかった。

おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていた為、当時の人々からは「蝮(マムシ)の耀蔵」、或いははその名をもじって「妖怪」とあだ名され、忌み嫌われた。

「妖怪」とは、耀蔵(ようぞう)の官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀蔵・甲斐守」と反転させた上省略して呼んだものと言う。

この時期に北町奉行だった遠山景元(とうやまかげもと/金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図る。

すると、耀蔵(ようぞう)は水野忠邦(みずのただくに)と協力し、遠山景元(とうやまかげもと)を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させる。

但しその遠山景元(とうやまかげもと)は、耀蔵(ようぞう)の失脚後に南町奉行として復帰している。

千八百四十三年(天保十四年)に、耀蔵(ようぞう)は勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。

清国で起こったアヘン戦争後、列強の侵略の危機感から、江川英龍(えがわひでたつ)高島秋帆(たかしましゅうはん)らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用される。

だが、終始蘭学反対の立場にあった耀蔵(ようぞう)は快く思わなかった。

耀蔵(ようぞう)は、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行・伊沢政義と協力して、高島秋帆(たかしましゅうはん)の落とし入れを図る。

耀蔵(ようぞう)は赴任前の伊沢政義と事前に相談して自分の与力を伊沢に付き従えさせるなどし、高島秋帆(たかしましゅうはん)に密貿易や謀反の罪を着せた。

長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島秋帆(たかしましゅうはん)に、耀蔵(ようぞう)が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせた。

だがこれも近年の研究では、長崎会所の長年に渡る杜撰(ずさん)な運営の責任者として高島秋帆(たかしましゅうはん)は処罰されたのである。

高島秋帆(たかしましゅうはん)の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害する事を恐れた水野忠邦(みずのただくに)によって行われたものとする説がある。

改革末期に水野忠邦(みずのただくに)が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に耀蔵(ようぞう)が反対派に寝返る。

耀蔵(ようぞう)は老中・土井利位(どいとしつら)に機密資料を残らず横流しした。

やがて「天保改革」は頓挫し、水野忠邦(みずのただくに)は老中辞任に追い込まれてしまうが、耀蔵(ようぞう)は従来の地位を保った。

ところが半年後の千八百四十四年(弘化元年)、外交問題の紛糾から水野忠邦(みずのただくに)が再び老中として将軍・家慶(いえよし)から幕政を委ねられると状況は一変する。

老中に再任された水野忠邦(みずのただくに)は、自分を裏切り改革を挫折させた耀蔵(ようぞう)を許さず、更に仲間の渋川、後藤の裏切りも在った。

同千八百四十四年(弘化元年)九月に耀蔵(ようぞう)は職務怠慢、不正を理由に解任される。

翌千八百四十五年(弘化二年)二月二十二日に有罪とされ、全財産没収の上で肥後人吉藩主・相良長福に預けられると決定する。

しかし同千八百四十五年(弘化二年)四月二十六日に、耀蔵(ようぞう)は出羽岩崎藩主・佐竹義純に預け替えになった。

それも変更され、結局、耀蔵(ようぞう)は十月三日に讃岐丸亀藩主・京極高朗に預けられる。

同日、渋川敬直も豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首された。

長崎奉行・伊沢政義も長崎奉行を罷免されて西丸留守居に左遷され、水野忠邦(みずのただくに)自身も再び老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居から隠居となる。

その後、水野家は出羽国山形藩に転封されている。

これの処断以降、耀蔵(ようぞう)は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、二十年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。

讃岐丸亀での耀蔵(ようぞう)には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。

耀蔵(ようぞう)への監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切無視されたりする事も在った。

それでもお預けの身分の耀蔵(ようぞう)は自らの健康維持のみならず、領民への治療を行い慕われた。

耀蔵(ようぞう)は幕府儒者・林家の出身で在った為学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた。

このように、軟禁されていた時代の耀蔵(ようぞう)は、「妖怪」と渾名され嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていた。

丸亀にいた間に、耀蔵(ようぞう)が食べたビワの種を窓から投げ捨てていたら、「彼が去る際に立派な大木に育っていた」と勝海舟(かつかいしゅう)が記している。

江戸幕府滅亡前後は、耀蔵(ようぞう)へ監視もかなり緩み、耀蔵(ようぞう)は病と戦いながら様々な変化を見聞している。

耀蔵(ようぞう)は明治政府による恩赦で、千八百六十八年(明治元年)十月に幽閉を解かれた。

しかし耀蔵(ようぞう)は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府、丸亀藩を困らせた。

耀蔵(ようぞう)は東京と改名された江戸に戻って、しばらく居住していたが、千八百七十年(明治三年)、郷里の駿府(現在の静岡市)に移住を決意する。

この際、実家である林家を頼ったが、既に林家には彼を見知っているものが一人もいなかったと言う。

千八百七十二年(明治五年)に、耀蔵(ようぞう)は東京に戻る。

江戸時代とは様変わりした状態を耀蔵(ようぞう)は「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していた。

耀蔵(ようぞう)の晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をする様な平穏な日々を送り、千八百七十三年(明治六年)十月三日、多くの子や孫に看取られながら七十八歳で亡くなった。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-06 13:19  

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