高島秋帆(たかしましゅうはん)
秋帆(しゅうはん)の先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔を名乗っている。
千八百十四年(文化十一年)、秋帆(しゅうはん)は父・茂起の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。
当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であった為、そこで育った秋帆(しゅうはん)は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然となる。
秋帆(しゅうはん)は出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え千八百三十四年(天保五年)に高島流砲術を完成させた。
この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌千八百三十五年(天保六年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、秋帆(しゅうはん)は清国がアヘン戦争でイギリスに敗れた事を知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える「天保上書」という意見書を提出する。
千八百四十一年(天保十二年)、秋帆(しゅうはん)は武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。
この演習の結果、秋帆(しゅうはん)は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘(あべまさひろ)からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。
秋帆(しゅうはん)は江戸末期の砲術家、高島流砲術の創始者(流祖)として「火技之中興洋兵之開祖」と号す事を認めらる。
幕命により、秋帆(しゅうはん)は江川英龍(えがわひでたつ)や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。
しかし、翌千八百四十二年(天保十三年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に、秋帆(しゅうはん)は逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。
幕府から重用される事を妬んだ鳥居耀蔵(とりいようぞう)の「密貿易をしている」という讒訴(ざんそ)によるというのが通説である。
だが、秋帆(しゅうはん)の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害する事を恐れた老中・水野忠邦(みずのただくに)によって行われたものとする説もある。
秋帆(しゅうはん)は、武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。
千八百五十三年(嘉永六年)、ペリー来航による社会情勢の変化により秋帆(しゅうはん)は赦免されて出獄する。
秋帆(しゅうはん)は、幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする「嘉永上書」を幕府に提出する。
攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
その後秋帆(しゅうはん)は、千八百六十六年(慶応二年)まで生き六十九歳で死去した。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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