高野長英(たかのちょうえい)
養父は叔父・高野玄斎で、玄斎は江戸で杉田玄白(すぎたげんぱく)に蘭法医術を学んだ事から家には蘭書が多く、長英も幼い頃から新しい学問に強い関心を持つようになった。
千八百二十年(文政三年)、長英(ちょうえい)は江戸に赴き杉田伯元(すぎたげんぱく)や吉田長淑に師事する。
この江戸生活で長英(ちょうえい)は吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。
千八百二十年(文政三年)、長英(ちょうえい)は父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。
千八百二十八年(文政十一年)シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英(ちょうえい)はこのとき巧みに逃れている。
シーボルト事件から間もなく、異説もあるが、長英(ちょうえい)は豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという。
この間、義父・玄斎が亡くなっており、長英(ちょうえい)は故郷から盛んに帰郷を求められる。
長英(ちょうえい)は逡巡したものの終(つい)に拒絶して家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。
千八百三十年(天保元年)長英(ちょうえい)は江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。
江戸開塾間もなく、長英(ちょうえい)は三河田原藩重役・渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合う。
長英(ちょうえい)はその能力を買われ、田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。
長英(ちょうえい)らは、わが国で初めてピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約する。
千八百三十二年(天保三年)、長英(ちょうえい)は紀州藩儒官・遠藤勝助が主宰する天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入る。
長英(ちょうえい)は「救荒二物考」などの著作を表し渡辺崋山(わたなべかざん)や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。
千八百三十七年(天保八年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きる。
翌千八百三十八年(天保九年)にこれを知った際、長英(ちょうえい)は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。
同千八百三十八年(天保九年)、長英(ちょうえい)はそうした意見をまとめた「戊戌夢物語」を著し、内輪で回覧に供した。
但しこの本「戊戌夢物語」は、長英(ちょうえい)の想像を超えて多くの学者の間で出回っている。
千八百三十九年(天保十年)目付・南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が主導する「蛮社の獄」が勃発する。
長英(ちょうえい)も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監される。
但しこの時、長英(ちょうえい)は捕らえられたのではなく、奉行所に自ら出頭した説もある。
長英(ちょうえい)は牢内で服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。
これらの行動と親分肌の気性から、長英(ちょうえい)は牢名主として祭り上げられるようになった。千八百四十四年(弘化元年)六月三十日、長英(ちょうえい)は牢屋敷の火災に乗じて脱獄する。
この牢屋敷火災、長英(ちょうえい)が牢で働いていた非人・栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。
脱獄の際、受牢者は三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けた。
だが、長英(ちょうえい)はこの警告を無視し、再び牢に戻って来る事はなかった。
脱獄後の詳しい経路は不明ながらも、長英(ちょうえい)は硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続ける。
長英(ちょうえい)は、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死する。
その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。
しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻り、長英(ちょうえい)は沢三伯の偽名を使って町医者を開業する。
医者になれば人と対面する機会が多くなる為、その中の誰かに長英(ちょうえい)と見破られる事も十分に考えられた。
千八百五十年(嘉永三年)十月三十日江戸の青山百人町(現在の南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛される。
現場にいたある捕手役人の覚書によると、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だった為、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命した。
しかし奉行所に提出された報告書によれば、長英(ちょうえい)は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。
長英(ちょうえい)は江戸に於いて勝海舟と会談、もしくは勝に匿ってもらったと言う話も、確証はないが伝えられている。
高野長英(たかのちょうえい)の最後は、四十六歳の非業の死だった。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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