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渡辺崋山(わたなべかざん)

渡辺崋山(わたなべかざん)は、江戸時代後期の武士、画家で、三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。

父・渡辺定通は江戸詰(定府)の田原藩士で、崋山(かざん)は長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区)の田原藩邸で生まれた。

渡辺家は田原藩(三宅家)で上士の家格を持ち、代々百石の禄を与えられていたが、父・定通が養子である事から十五人扶持(田原藩では二十七石)に削られていた。

藩の財政難による更なる減俸で実収入はわずか十二石足らずとなり、父・定通が病気がちで医薬費がかさみ、渡辺家は困窮していた。

崋山(かざん)には画才が在り、絵を売って生計を支えるようになる。

さらに崋山(かざん)は、画家・谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能が大きく花開き、二十代半ばには画家として著名となり、家計は安定する。


田原藩士としての崋山(かざん)は、八歳で時の藩主・三宅康友の嫡男・亀吉の伽役(とぎやく/遊び相手)を命じられるも、嫡男・亀吉は夭折(ようせつ/幼くして亡くなる)する。

嫡男・亀吉の夭折(ようせつ)後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役(とぎやく)となり、藩主・康友からも目をかけられるなど、崋山(かざん)は幼少時から藩主一家とごく近い位置に在った。

崋山(かざん)は十六歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕、そのお役は納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目だった。

千八百二十三年(文政六年)、崋山(かざん)は田原藩の和田氏の娘・たかと結婚する。

千八百二十五年(文政八年)には父・定通の病死の為、崋山(かざん)は三十二歳で家督を相続し、家禄八十石を引き継いだ。

しかし相続間もない千八百二十五年(文政十年)、伽役(とぎやく)を務めて親しかった藩主・康明が二十八歳の若さで病死してしまう。

藩首脳部は貧窮する藩財政を打開する為、当時裕福で在った姫路藩(酒井氏)から養子を持参金付きで迎えようとする。

崋山(かざん)はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。

結局藩上層部の意思が通って養子・康直が藩主となるも、崋山(かざん)らは藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とする事を承諾させている。

更に藩首脳部は、崋山(かざん)ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇する。

崋山(かざん)は友信の側用人として親しく接する事となり、後に崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出す事もあった。

絵画ですでに名を挙げていた崋山(かざん)は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわず年寄役末席(家老職)に就任する。

家老職就任は崋山(かざん)三十九歳、千八百三十二年(天保三年)の事だった。

崋山(かざん)は優秀な藩士の登用と士気向上の為、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図り、藩政改革に尽力する。

崋山(かざん)は藩の助郷免除嘆願の為に海防政策を口実として利用した。

よって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願の為の隠れ蓑で、崋山(かざん)自身は開国論を持っており、本音は鎖国・海防に反対だった。


崋山(かざん)は紀州藩儒官・遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英(たかのちょうえい)などと飢饉の対策について話し合う。

この成果として高野長英(たかのちょうえい)はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した「救荒二物考」を上梓する。

絵心のある崋山(かざん)が、その「救荒二物考」の挿絵を担当している。

その後、この学問会は千八百三十七年(天保八年)のモリソン号事件とともにさらなる広がりを見せる。

蘭学者の高野長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。

特に江川英龍(えがわひでたつ)は崋山(かざん)に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けたとされている。

しかし近年の研究では、幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加しておらず、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけだったとする説も在る。

崋山(かざん)や高野長英、小関三英は、内心では鎖国の撤廃を望んでいた。

つまり崋山(かざん)は、幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていた。

江川英龍(えがわひでたつ)は崋山(かざん)を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていた。

千八百三十八年(天保九年)にモリソン号事件を知った崋山(かざん)や高野長英(たかのちょうえい)は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する「慎機論」を書いた。

但し崋山(かざん)は、田原藩の年寄と言う立場上幕府の対外政策を批判できなかった。

崋山(かざん)は提出を取りやめ草稿のまま放置していた。

だが、この反故にしていた崋山(かざん)の原稿が約半年後の「蛮社の獄」に於ける家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされる事になる。

「蛮社の獄」は、幕府の保守派、目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の新聞記者・藤田茂吉(ふじたもきち)がこれを自由民権運動との連想で書いた為だった。

実際には、鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)との確執が「蛮社の獄」の原因である。

千八百三十九年(天保十年)五月、鳥居耀蔵(とりいようぞう)は江川英龍(えがわひでたつ)とその仲間を罪に落とそうとした。

江川英龍(えがわひでたつ)は老中・水野忠邦(みずのただくに)にかばわれて無事だったが、崋山(かざん)は家宅捜索の際に、崋山(かざん)が発表を控えていた「慎機論」を発見される。

崋山(かざん)は陪臣の身で国政に容喙したと言う事で、三河国田原に蟄居する事となったと言うのが通説である。

この通説が在るものの、近年の研究では、江戸湾巡視の際に鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)の間に対立があったのは確かだが、元々、鳥居と江川は以前から昵懇の間柄だった。

その鳥居と江川の両者の親交は江戸湾巡視中や「蛮社の獄」の後も、鳥居が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いていて、両者に確執に求めるのは誤りであるともされる。

千八百四十一年(天保十二年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人・福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てる事となった。

ところが、崋山(かざん)が生活の為に絵を売っていた事が幕府で問題視されたとの風聞が藩内に立つ。

この風聞、一説には藩内の反崋山派による策動とされているが、藩に迷惑が及ぶ事を恐れた崋山(かざん)は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて四十八歳で切腹した。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-06 14:03  

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