江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)と韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)
その中でも中心的役割を果たしたのが江川太郎左衛門・英龍(えがわたろうざえもん・ひでたつ)である。
江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)とは伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。
江川家の始祖は、清和源氏源経基の孫・源頼親でありこの血統は大和源氏と呼ばれた。
初め宇野氏を名乗り、伊豆には九代・親信の代・平安末期に移住した中世以来の名家である。
平安末期、宇野治長(うのはるなが)が源頼朝の伊豆挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。
その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕え、本拠地・江川荘を持って宇野姓から江川姓に名乗りを変える。
二十八代・江川英長は、たびたび北条氏直の使いにて岡崎の徳川家康目通(めどお)りしている。
家康と昵懇(じっこん)になるも同僚・笠原隼人が北条氏直に讒言(ざんげん)した為、これを斬り、三河の家康の下に走る。
のち北条氏直に許され、家康の次女・督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐときに従い韮山に 帰る。
千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家二十八代・英長は北条氏を寝返って徳川家康に従い、その功により代官に任ぜられた。
以降江川家は、享保八年- 宝暦八年の三十五年間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石分(後二十六万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。
この有力代官・江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄で、太郎左衛門(たろざえもん)とは江川家の代々の当主の世襲通称である。
中でも三十六代当主・江川英龍(えがわひでたつ)が著名で、この欄の太郎左衛門は主に英龍(ひでたつ)を指す事とする。
父・英毅(ひでたけ)が長命だった為に英龍(ひでたつ)が代官職を継いだのは、三十五歳の時とやや遅い千八百三十五年(天保六年)の事である。
元服から代官職を継ぐ間の英龍(ひでたつ)は、やや悠々自適に過ごしていた。
英龍(ひでたつ)は、時に江戸に遊学して岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしている。
英龍(ひでたつ)が正体を隠していたのは、甲斐国では千八百三十六年(天保七年)八月に甲斐一国規模となった天保騒動の影響や博徒(甲州博徒)が横行していた為の「甲州微行」だった。
その後も同門の友人・斎藤弥九郎との関係は終生続いた。
父・英毅(ひでたけ)は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られる。
英龍(ひでたつ)も施政の公正に勤め、二宮尊徳(にのみやそんとく)を招聘して農地の改良などを行った。
英龍(ひでたつ)は日本で初めてパンを焼いたとされ、製パン業界では「パン祖」とされている。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。
こうした領民を思った英龍(ひでたつ)の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。
現在に至っても彼の地元・韮山では江川英龍(えがわひでたつ)へ強い愛着を持っている事が伺われる。
江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。
幕府は異国船打払令を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていたが千八百三十七年(天保八年)、モリソン号事件が発生する。
浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し、幕府の「異国船打払令」を適用した浦賀奉行は、小田原藩と川越藩に命じて砲撃を敢行する。
この砲撃、沿岸備砲は旧式ばかりで沖合に停泊していたモリソン号には全く届かず、海防装備に於ける大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さも鮮明となり、新型大砲の鋳造が急がれた。
英龍(ひでたつ)としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持った。
こうした時期に川路聖謨(かわじとしあきら)・羽倉簡堂(はくらかんどう)の紹介で英龍(ひでたつ)は渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)ら尚歯会の人物を知る事になる。
渡辺崋山(わたなべかざん)らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していた。
だが、それだけに英龍(ひでたつ)の危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。
ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。
尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍(ひでたつ)は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。
そうした中で英龍(ひでたつ)と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える渡辺崋山(わたなべかざん)は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆(たかしましゅうはん)の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら保守勢力がこの動きを不服とした。
特に鳥居耀蔵(とりいようぞう)からすれば過去に英龍(ひでたつ)と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、渡辺崋山(わたなべかざん)の人脈と知識を借りた英龍(ひでたつ)に敗れ、老中・水野忠邦(みずのただくに)に叱責された事が在る。
鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍(ひでたつ)、そして彼のブレーンとなっていた渡辺崋山(わたなべかざん)らが気に入らなかった。
千八百三十九年(天保十年)、ついに鳥居耀蔵(とりいようぞう)は「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」を越して冤罪をでっち上げ、渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった。
しかし英龍(ひでたつ)は彼を高く評価する老中・水野忠邦(みずのただくに)に庇(かば)われ、罪に落とされなかったというのが通説である。
だが近年の研究では、この通説否定する説も浮上している。
否定説に依ると、英龍(ひでたつ)とは高野長英(たかのちょうえい)は面識がなく、また渡辺崋山(わたなべかざん)と簡堂の接点も不明である。
そして、崋山(かざん)と秋帆(しゅうほう)も「面識はなかった」と伝えられている。
崋山(かざん)・長英(ちょうえい)らはいずれも内心鎖国の撤廃を望んでいたが、幕府の鎖国政策を批判する危険性を考えて崋山(かざん)は海防論者を装っていた。
崋山(かざん)が所属していた田原藩の海防も、助郷返上運動のための理由づけとして利用されただけだった。
海防論者である英龍(ひでたつ)は崋山(かざん)を海防論者と思って接触し、逆に崋山(かざん)はそれを利用して英龍(ひでたつ)に海防主義の誤りを啓蒙しようとした。
やがて英龍(ひでたつ)も崋山(かざん)が期待したような海防論者ではないことを悟ったとみられる。
幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、韮山反射炉である。
また、江戸湾巡視の際に鳥居耀蔵(とりいようぞう)と英龍(ひでたつ)の間に対立があったのは確かだ。
だが、もともと鳥居耀蔵(とりいようぞう)と英龍(ひでたつ)は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵(ようぞう)が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いている。
幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、江川家の韮山反射炉である。
図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。
その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。
「蛮社の獄」に際しても鳥居耀蔵(とりいようぞう)は英龍(ひでたつ)を標的とはしておらず、英龍(ひでたつ)は「蛮社の獄」とは無関係だとしている。
なお、尚歯会の会員で処罰を受けたのは渡辺崋山(わたなべかざん)と高野長英(たかのちょうえい)のみで、尚歯会自体は弾圧は受けていない。
その「蛮社の獄」の後、英龍(ひでたつ)は長崎へと赴いて高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りし(同門に下曽根信敦)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
これが実現し、英龍(ひでたつ)は老中・水野忠邦(みずのただくに)より正式な幕命として高島秋帆(たかしましゅうはん)への弟子入りを認められる。
以後、英龍(ひでたつ)は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育した。
佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)など、そうそうたる人材が英龍(ひでたつ)の門下で学んでいる。
英龍(ひでたつ)は千八百四十三年(天保十四年)に水野忠邦(みずのただくに)が失脚した後に老中となった阿部正弘(あべまさひろ)にも評価される。
千八百五十三年(嘉永六年)、英龍(ひでたつ)はペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、老中・阿部正弘(あべまさひろ)の命で台場を築造した。
同様に英龍(ひでたつ)は、反射炉も作り、銃砲製作も行った。
現在も伊豆韮山(静岡県)に、英龍(ひでたつ)が計画し、跡を継いだ息子の江川英敏(えがわひでとし=世襲・太郎左衛門/たろうざえもん)が築いた反射炉跡が残っている。
英龍(ひでたつ)の跡を継いだ子息・英敏(えがわひでとし=世襲・太郎左衛門/たろうざえもん)は、反射炉を活用して大砲を鋳造した他、江戸幕府の命により韮山形(にらやまがた)と呼ぶ型式の西洋式軍艦を建造している。
「韮山反射炉は、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)が造った」で正解なのだが、太郎左衛門は江川家代々の襲名だから、実は英龍(ひでたつ)と英敏(ひでとし)の親子二代で造った事が、一人で造ったと誤解されている。
幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、韮山反射炉である。
図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。
その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。
韮山反射炉は、伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡で、近代化産業遺産群の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される。
日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみであるため貴重な遺構とされる。
英龍(ひでたつ)は勘定吟味役格に登用されたが、近年の説では老中・正弘正弘(あべまさひろ)は海防強化には終始消極的だったとされる。
水野忠邦(みずのただくに)が罷免され、阿部正弘(あべまさひろ)が老中として実権を握ると、海防強化策は撤回され英龍(ひでたつ)も鉄砲方を解任されている。
品川沖台場の築造も翌千八百五十四年(嘉永七年)に日米和親条約が調印されると、予定十一基のうち五基が完成しただけで工事の中止が決定されている。
英龍(ひでたつ)は造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に当たる。
そうした諸般の任に加え、英龍(ひでたつ)は爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図した。
しかし、あまりの激務に体調を崩し、英龍(ひでたつ)は千八百五十五年(安政二年)一月十六日に満五十三歳で病死している。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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