松平定信(まつだいらさだのぶ)と「寛政の改革」
定信(さだのぶ)の父・徳川宗武(とくがわむねたけ)は、八代将軍・徳川吉宗の次男だった。
定信(さだのぶ)の実際の生まれは十二月二十八日の亥の半刻(午後十時ころ)であったが、田安徳川家の系譜では二十七日とされ、また「田藩事実」では十二月二十八日とされている。
翌千七百五十九年(宝暦九年)一月九日に、定信(さだのぶ)は幼名・賢丸(まさまる)と命名される。
御三卿は、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の子で構成されているから、その血統にある賢丸(まさまる=定信)は、将軍・吉宗の孫に当たる。
定信(さだのぶ)の生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かって来た。
母・とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、女子の山村三演は采女(うねめ=女官)と称して本家の厄介となった。
母・とやは山村三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。
父・宗武の正室が近衛家の出身である為、母・とやも田安徳川家に仕えて父・宗武の寵愛を受けた。
定信(さだのぶ)は側室の子(庶子)であったが、父・宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていた。
その為、同母兄の六男・松平定国と一歳年下の定信(さだのぶ)は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった。
千七百六十二年(宝暦十二年)二月十二日、田安屋敷が焼失した為、定信(さだのぶ)は江戸城本丸に一時居住する事を許された。
千七百六十三年(宝暦十三年)、定信(さだのぶ)六歳の時に病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。
定信(さだのぶ)の幼少期は多病だったと伝えられている。
定信(さだのぶ)は幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第十代将軍・徳川家治の後継と目されていた。
しかし、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれていた。
老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済(はるさだ)によって、定信(さだのぶ)は養子に出される。
千七百七十四年(安永三年)に、定信(さだのぶ)は久松・松平家の庶流で陸奥白河藩第二代藩主・松平定邦(まつだいらさだくに)の養子とされた。
白河藩の養子になった後も、定信(さだのぶ)はしばらくは御三卿・田安徳川家の田安屋敷で居住していた。
同千七百七十四年九月八日(実際は八月二十八日)の兄・徳川治察(田安/とくがわはるさと )の死去により田安家の後継が不在となった。
定信(さだのぶ)は幕閣に養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。
一時期は将軍世子とまで言われた定信(さだのぶ)は、この事により老中・田沼意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる。
一方で、定信(さだのぶ)自らも幕閣入りを狙って、老中・田沼意次に賄賂を贈っていた事は、有名な逸話である。
ただし、定信(さだのぶ)が白河藩の養子となった当時は、将軍・家治(いえはる)の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無だった。
また、御三卿は庶子だけでなく世子や当主ですら他大名家への養子へ送り出される事が多かった為、定信(さだのぶ)の将軍世子候補の件は後世に付け加えの可能性さえある。
同じ久松・松平家の伊予松山藩主・松平定静(まつだいらさだきよ)が、田安家から定信(さだのぶ)の実兄・定国を養子に迎えて溜詰に昇格していた。
養父・白河藩々主・松平定邦(まつだいらさだくに)も、溜詰(たまりづめ)と言う家格の上昇を目論んで定信(さだのぶ)を養子に迎えた。
家督相続後、定信(さだのぶ)は幕閣に家格上昇を積極的に働きかけている。
ただし、それが実現したのは定信(さだのぶ)が老中を解任された後であった。
定信(さだのぶ)は、天明の大飢饉に於ける白河藩々政の建て直しの手腕を将軍・家治や幕閣に認められる。
千七百八十八年(天明六年)に将軍・家治が死去して将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の代となり、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚した。
後の千七百八十九年(天明七年)、定信(さだのぶ)は徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の下(もと)で老中首座・将軍輔佐となる。
そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の「享保の改革」を手本に「寛政の改革」を行い、幕政再建を目指した。
老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。
確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。
徳川家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。
しかし、定信(さだのぶ)は将軍・徳川吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。
定信(さだのぶ)は、前任者である田沼意次(たぬまおきつぐ)の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治を改める。
定信(さだのぶ)は、飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで一応の成果をあげた。
しかし定信(さだのぶ)は、老中就任当初から、偽作者で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。
さらに「尊号一件」や「大御所事件」なども重なって次第に家斉(いえなり)と松平定信は対立するようになった。
家斉(いえなり)と松平定信の対立原因ともなった「尊号一件」とは、千七百八十九年(寛政元年)に時の光格天皇が実父・典仁親王に太上 (だいじょう) 天皇の尊号を贈りたい旨江戸幕府に希望した際、老中・松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するものとして拒否した一連の事件を言う。
また「大御所事件」とは、将軍・ 徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとした際、老中・松平定信が先例が無いとして否定した事件である。
幕府のみならず様々な方面から定信(さだのぶ)批判が続出し、わずか六年で老中を失脚する事となった。
千七百九十二年頃に成ると、日本沿岸に多数の外国船が出没し通商を求めて来る。
定信(さだのぶ)は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めている。
同千七百九十三年七月二十三日、定信(さだのぶ)は、海防の為に出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。
定信(さだのぶ)引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだ。
彼ら留任組は寛政の遺老と呼ばれ、定信(さだのぶ)の「寛政の改革」に於ける政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持される事となった。
老中失脚後の定信(さだのぶ)は、白河藩の藩政に専念する。
白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信(さだのぶ)は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。
また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。
定信(さだのぶ)の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。
ところが、寛政の改革の折に定信(さだのぶ)が提唱した江戸湾警備が千八百十年(文化七年年)に実施に移されることになる。
最初の駐屯は主唱者とされた定信(さだのぶ)の白河藩に命じられる事となり、これが白河藩の財政を圧迫した。
千八百十二年(文化九年)、定信(さだのぶ)は家督を長男の定永(さだなが)に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。
定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。
桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。
ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった息子・定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図った。
その為に、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。
千八百二十九年(文政十二年)の一月下旬から定信(さだのぶ)は風邪をひき、二月三日には高熱を発した。
この風邪の療養中、江戸は大火にみまわれて、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼した。
定信(さだのぶ)は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送された。
屋敷の焼失により、定信(さだのぶ)は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため四月十八日に松山藩の三田の中屋敷に移った。
この仮屋敷の中で病床にあった定信(さだのぶ)は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永(さだなが)と藩政に関して語り合った。
定信(さだのぶ)は、一時回復の兆しも見せる。
しかし、五月十三日の八つ時(午後二時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後四時)に医師が診察する中で、急に脈拍が変わり、七十二歳で死去した。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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by mmcjiyodan | 2015-05-08 21:17