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モリソン号事件と「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」

実はマシュー・ペリーのアメリカ軍艦(黒船来航)の前に、アメリカが日本の開国には武力が必要と認識させる「モリソン号事件」が起きていた。

モリソン号事件(もりそんごうじけん)とは、千八百三十七年(天保八年)、日本人漂流民(音吉ら七人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件である。

鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号(Morrison)」に対し、薩摩藩及び浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行った。

鹿児島湾の砲撃は薩摩藩、江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩と川越藩だった。

このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら七人が乗っていた。

モリソン号が、この日本人漂流民の送還と通商・布教の為に平和目的で来航していた事が事件の一年後に各方面に判かり、問答無用の異国船打払令に対する批判が強まった。

また、当時モリソン号はイギリス軍艦と勘違いされていたが、アメリカ商船モリソン号は非武装だった。

後に、「慎機論」を著した渡辺崋山(わたなべかざん)、「戊戌夢物語」を著した高野長英(たかのちょうえい)らが幕府の頑(かたく)なな対外政策を批判した為逮捕されると言う事件「蛮社の獄」が起こる。


別名・「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」は、千八百三十九年(天保十年)五月に起きた蘭学者に対する言論弾圧事件である。

高野長英(たかのちょうえい)、渡辺崋山(わたなべかざん)などが、モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。


「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」の発端の一つとなったモリソン号事件は、千八百三十七年(天保八年)に起こった。

江戸時代には、日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人七名もそのケースであった。

彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。

この際に使用された船が、アメリカ商船船モリソン号である。

千八百三十七年(天保八年)六月二日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は六月二十八日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。

モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風(しまづひさかぜ)と交渉した。

島津久風(しまづひさかぜ)は、七人の漂流民をアメリカ船モリソン号が唯一出島で国交があるオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶する。

薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃された為、モリソン号は断念してマカオに帰港した。

日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表す為に武装を撤去していた為である。

また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

翌千八百三十八年(天保九年)六月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来の経緯(いきさつ)について報告した。

モリソン号はイギリス船と誤って伝えられたが、これにより初めて幕府はモリソン号が漂流民を送り届けに来た事及び通商を求めて来た事を知った。

老中・水野忠邦(みずのただくに)は、この報告書を幕閣の諮問にかけた。


千八百三十八年(天保九年)七~八月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

老中・水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌九月の林大学頭の答申は前回と変わらず、老中・水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。

これに対する千八百三十八年(天保九年)戌十月の評定所一座の答申は以下のとおり。

評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)の結論は「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし。」と出た。

老中・水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であった。

十二月になり老中・水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。


「蛮社の獄」に於ける近年の説では、  目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)に、幕臣を告発する意図は最初からなかったとしている。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)は昵懇の間柄であり、鳥居は渡辺崋山(わたなべかざん)の友人に幕府高官もいる事を利用して老中・水野に崋山の危険性と影響力の強さを強調しようとしたものと解されている。

また老中・水野が再調査を命じた根拠とされる「鳥居耀蔵(とりいようぞう)の上書(告発状)」以外のもう一通の上書についても、老中・水野の再調査命令による上書ではない。

上書は、吟味の過程で鳥居耀蔵(とりいようぞう)の告発に疑問を抱いた北町奉行所が、作成したものだろうとしている。

何故なら、もし老中・水野の信任厚い羽倉・江川に疑惑があるなら直接問い正す筈だし、またこの時点で水野が鳥居を全面的に信頼しているのは明らかだとしている。

千八百三十九年(天保十年)五月十四日に渡辺崋山(わたなべかざん)・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。

キリストの伝記を翻訳していた小関三英は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、五月十七日に自宅にて自殺した。

高野長英(たかのちょうえい)は一時身を隠していたが、五月十八日になり自首して出た。

これにより、逮捕者は以下の八名、

田原藩年寄・渡辺崋山(四十七歳)、町医・高野長英(三十六歳)、無量寿寺住職・順宣(五十)とその息子・順道(二十五歳)、旅籠の後見人・山口家金次郎(三十九歳)、蒔絵師・山崎秀三郎(四十歳)、御徒隠居・本岐道平(四十六歳)、元旗本家の家臣・斉藤次郎兵衛(六十六歳)

となった。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-08 21:20  

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