異国船打払令とフェートン号事件
フェートン号事件とは、千八百八年(文化五年)八月、「イギリス」の軍艦フェートン号が、鎖国体制下の 日本の長崎港に「不法侵入」 した事件である。
千八百八年(文化五年)八月十五日、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。
これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では、慣例に従って商館員ホウゼンルマンとシキンムルの二名を小舟で派遣する。
その商館員二名が長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えの為船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって拉致され、船に連行された。
それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。
長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。
オランダ・カピタン(商館長)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、奉行・松平康英に商館員の生還を願い、さらに戦闘回避を勧めた。
長崎奉行の松平康英は、カピタン(商館長)・ズーフに商館員の生還を約束する。
一方で、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。
ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減の為守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の十分の一ほどのわずか百名程度しか在番していない事が判明する。
長崎奉行・松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。
翌十六日、ペリュー艦長は人質の一人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。
人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、長崎奉行・松平康英はやむなく要求を受け入れることとした。だが長崎奉行・松平康英は、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図る事とした。
長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。
これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。
十七日未明、近隣の大村藩主・大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。
長崎奉行・松平康英は大村藩主・大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちする為の作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。
長崎港に不法侵入したフェートン号事件の背景には、欧州の政情が影響していた。
千六百四十一年以後、徳川幕府に依る鎖国政策下の日本は、長崎出島に於いてネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許されていた。
しかしそのオランダ本国が、千七百九十三年フランス革命でフランスに占領され、オランダ統領のウィレム五世はイギリスに亡命する。
その後の千八百六年、ナポレオン皇帝は弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。
世界各地にあったオランダの植民地は、すべて革命フランスの影響下に置かれる。
一方イギリスは、亡命して来たウィレム五世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていた。
だが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。
それでもアジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
フェートン号事件は、結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。
しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行・松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹する。
また、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩の家老等数人も責任を取って切腹した。
さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、十一月には藩主・鍋島斉直に百日の閉門を命じた。
フェートン号事件の後、カピタン(商館長)・ズーフや長崎奉行・曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。
その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は千八百二十五年に異国船打払令を発令する事になる。
この屈辱を味わった鍋島藩は次代藩主・鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。
詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。
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