地租改正(ちそかいせい)
地租(ちそ)の由来は、大化の改新により成立した律令国家が、唐に倣って採用した租税制度である「租庸調(そようちょう)」のうちの「租(そ)」に遡(さかのぼ)る。
ここでいう租(そ)とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。
明治以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。
豊臣秀吉(とよとみのひでよし)の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課す事とされた。
また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。
地租は収穫量を今日で言う課税標準とし、直接に耕作者である生産者からその生産物をもって物納徴収され、この納入は村請により村単位で一括して行われた。
江戸時代までの貢租(こうそ)は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者で在った。
また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。
このような制度を、陸奥宗光(むつむねみつ)は、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。
この改革により日本に初めて土地に対する私的所有権が確立した事から、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。
地租改正は全ての土地に課税されるものとし、以前に認められていた恩賞や寺社領などに対する免税を否認した。
これに先立って施行された解放令によって穢地の指定を外されていたかつての穢多非人の所有地も同様であった。
また、入会地なども同様に否定して国有地に編入した。
この千八百七十三年(明治六年)の租税制度改革により日本に初めて土地に対する私的所有権が確立した。
倒幕派に依る明治維新が達成された初期から、大蔵省や民部省では全ての土地に賦課して一定の額を金納させる新しい税制である地租の導入が検討されていた。
千八百六十九年(明治二年)二月、兵庫県知事・陸奥宗光が、租税制度改革の建白書を中央に提出する。
宗光は、土地等級制の確立、税制の統一、地租金納を主張し、「古来検地ノ通弊ヲ改正」すべしとした。
また、一等訳官・神田孝平(洋学者/官僚)も、千八百七十年(明治三年)に「田租(たそ)改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にする為の貢租改革が提案されていた。
しかし当時、土地の賦課の是非は大名などの領主の権限と考えられていた。
そして、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性がある事から、政府内でも賛否両論が在ってまとまらなかった。
その一年後の千八百七十一年(明治四年)、国家体制そのものの大改革で廃藩置県が行われる。
この廃藩置県で日本からは領主身分が一掃される形となり、反対論の大きな理由が失われた。
同千八百七十一年九月、「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成される。
田畑永代売買禁止令の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。
千八百七十二年(明治五年)四月、陸奥宗光は「田租改革建議」を太政官に上申した。
同千八百七十二年(明治五年)六月十八日、陸奥宗光は大蔵大輔井上馨によって、神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢され、権頭松方正義とともに、地租改正法案の策定にあたる事になった。
千八百七十三年(明治六年)大蔵省地方官会同で陸奥宗光は、租税頭に就任した。
この地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めた事から、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。
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