トーマス・ブレーク・グラバー
徳川江戸幕府大老・井伊直正が長崎・横浜・箱館(函館)の三港を世界に開港、安政の開国とされた。
同時に諸外国の商人たちは、長崎・大浦居留地の周辺に住居を構え貿易を営み始める。
その中に特筆すべき人物としてトーマス・ブレーク・グラバーが居る。
安政の開国直後の千八百五十九年、英国スコットランド出身のグラバーは弱冠二十一歳で上海を経由して来日、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店・グラバー商会を設立する。
ベテランの外国人商人たちの中にあって、グラバーは茶やその他の産物、武器船舶などを取り扱う商人として仲間入りをする。
だが、グラバーは八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬の販売を開始する。
やがてグラバーは、日本の再建に外国人商人としての立場を超越した活躍を見せ始める。
それには日本の若い志士たちに国際的な目を開かせる事が先決だとして、グラバーは伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋している。
坂本龍馬が主宰する亀山社中とも、グラバーは取引を行った。
また、グラバーは薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、伊藤博文ら長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。
こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは、グラバーの努力に負う所が少なくない。
明治以降グラバーは純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献する。
次にグラバーは、産業立国の大方針を以て当局に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓した。
グラバーは千八百六十五年(元治二年)、わが国の鉄道開通の七年も前に大浦海岸に蒸気機関車を試走させる。
千八百六十八年(明治元年)グラバーは高島炭鉱を開発、また同年には小菅に近代式修船場を設けたりと日本の新世紀にエネルギー溢れる協力をした。
グラバーはとび色の瞳と赤い顔の為、彼が経営した高島炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名された。
しかしグラバーの性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だった。
グラバーは、日本近代化に協力したとして、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。
しかしグラバー商会の親会社・ジャーディン・マセソン商会は、中国に阿片を売りまくって阿片戦争を引き起こした死の商人だった事から、「明治維新最大の黒幕」とも指摘されている。
貿易商人・トーマス・ブレーク・グラバーの住居は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つグラバー園・グラバー邸として知られている。
グラバー邸は、現存する日本最古の木造洋風建築で、長崎観光の目的の名所の一つと成っている。
【幕末~明治維新・人名と事変リスト】を参照下さい。
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