広島原爆投下(ひろしまげんばくとうか)
この広島原爆投下(ひろしまげんばくとうか)が、実戦で使われた世界最初の核兵器である。
千九百四十五年七月二十五日、米大統領・トルーマンが原爆投下の指令を承認する。
ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)に原爆投下が指令された。
八月二日、グアム島の米軍・第二十航空軍司令部からテニアン島の第五百九混成群団に、次のような野戦命令十三号が発令される。
八月四日、原子爆弾を搭載するB-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。
翌八月五日二十一時二十分、第五百九混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。
同五日、五百九混成群団司令部から作戦命令三十五号が発令される。
ブリーフィング(簡単な報告・指令)で、ポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイの搭乗員に出撃命令を伝えた。
エノラ・ゲイと言う爆撃機のニックネームは、出撃命令を伝えたポール・ティベッツ陸軍大佐の母親の名前に由来すると言う。
八月六日零時三十七分、まず気象観測機のB-29が三機、候補都市三ヵ所の天候状態を観測しに離陸した。
ストレートフラッシュ号は広島市へ、ジャビット3世号は小倉市へ、フルハウス号は長崎市だった。
零時五十一分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。
続いて一時二十七分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、一時四十五分にA滑走路の端から離陸する。
エノラ・ゲイ離陸二分後の一時四十七分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が離陸する。
さらに二分後の一時四十九分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。
この八月六日、六機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内四機が広島上空へ向かっていた。B-29が、テニアン島から広島市までは約七時間の飛行で到達できる距離である。
八月六日六時三十分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐モーリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らがエノラ・ゲイの爆弾倉に入る。
彼らが、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。
作業を終えたパーソンズ大佐はポール・ティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。
機長・ポール・ティベッツ大佐は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。
この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見する。
通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。
エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度二千m前後の低空飛行から急上昇し、七時三十分に八千七百mまで高度を上げた。
さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが被弾はなかった。
この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、高高度飛行に対応できず射撃位置の占有に失敗した。
エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開する。
七時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の一機、クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号が広島上空に到達した。
七時十五分頃、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第三百十三航空団に気象報告を「Y3、Q3、B2、C1」と送信する。
「Y3、Q3、B2、C1」の意味は「低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第一目標(広島)を爆撃せよ」だった。
この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であり、投下目標が広島に決定される。
ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から七時九分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱した為、七時三十一分に解除された。
その後の八時過ぎ、B-29少数機(報告では二機であったが、実際には三機)が日本側によって捕捉される。
八時九分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。
その八時九分、中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。
八時十三分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。
エノラ・ゲイ号の高度は、三万一千六百フィート(役九千六百三十メートル)に在り、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。
青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。
この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を、目撃した市民が原爆と誤認した為、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。
この誤りの為、一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲(ろかく/接収)した。
広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。
また一部の市民は、このラジオゾンデ投下を「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。
八時十二分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP=第一目標=広島)に到達した事を、航法士カーク陸軍大尉は確認した。
エノラ・ゲイ機は自動操縦に切り替えられ、爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。
相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋であり、特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できる為、目標に選ばれていた。
八時五十一分十七秒、原爆リトルボーイが自動投下された。
副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2km)離れた地点の上空であると推察される。
三機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避ける為にバンクして進路を155度急旋回した。
再び手動操縦に切り替えたポール・ティベッツ大佐はB-29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。
リトルボーイは、爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。
落下したリトルボーイは間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約四十三秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約六百メートルの上空で核分裂爆発を起こした。
この一発の兵器により当時の広島市の推定人口三十五万人のうち九万~十六万六千人が被爆から二~四ヶ月以内に死亡したとされる。
この広島での核爆発被害の詳細は余りにも残酷なので、ここでは記述を控えさせてもらう。
そこで、この核爆弾投下に対する米国民の解釈が問題なのである。
例えば、八月六日の広島原爆投下から七十年経った現在でも、米国民の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。
何故なら戦後の米国内教育が、長期に渡り「広島への原爆投下は、戦争終結の為に正しかった」と一貫して居たからだ。
これはもぅ各国の為政者が、自分達の為に創る「お定まりの創作神話」みたいな偽りの歴史例である。
しかしその広島原爆投下の現実は、一瞬にして地方の大都市を破壊し、ほとんどが非戦闘員だった十四万人強の人々を無差別に殺戮している。
広島被爆から三日後、八月九日に再び長崎に原爆が投下され、またも無差別に約七万四千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊している。
また、この二発の原爆から生き延びた被爆者は、永い事悲惨な原爆症に苦しめられる生涯を送る事に成った。
それでも、米国民の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。
つまりこう言う為政者を正当化する「創作神話」は、いつの世にもどこの国でもある事だが、その「為政者の創作神話」が必ずしも正しく無い現実を、人々は知らねば成らない。
詳しくは、小論【広島・長崎 原爆被爆概略史】を参照下さい。
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