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ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、太平洋戦争末期にソビエト連邦軍が日ソ中立条約(千九百四十一年/昭和十六年締結)を一方的に破棄して満州に攻め込んで来た一連の奇襲攻撃の作戦・戦闘を指す。

このソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、千九百四十五年八月九日未明に開始された。

日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島に於ける一連の作戦・戦闘である。

日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。


ロシア革命後のソ連は、世界を共産主義化する事を至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。

極東に於いては、朝鮮半島から満州地方に勢力を延ばしつつ在った日本との日ソの軍拡競争は千九百三十三年(昭和八年)からすでに始まっていた。

当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進した。

しかし千九百三十六年(昭和十一年)頃には、日ソ間に戦備に決定的な開きが現れていた。

師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站に渡って極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを「大きく凌いでいた」と言われる。

張鼓峰事件やノモンハン事件に於いて日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識した。

しかしながら、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争(大東亜戦争)勃発で南方へと移行し、対ソへの備えに手が回らない事となる。

千九百四十三年後半以降の南方に於ける戦局の悪化は、関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらせ弱体化が進んだ。

満洲に於ける日本の軍事力が急速に低下する一方で、これに先立ちドイツ軍は敗退を続け、終(つい)に千九百四十五年五月に敗北した。

この日ソ中立条約、元々国家間に誠意が在っての条約ではない。

ただ単に、米英中と言った相手と戦争する日本に、「背後からソ連に攻められない為」とドイツと戦うソ連が、「背後から日本に攻められない為」と言う互いの利が一致したからである。

つまりどちらの国も、前面の敵が無く成れば条約を破棄して開戦に到る可能性は充分に在った。

ドイツ軍が敗北した事でソ連側に余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。


クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じ頃対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。

千九百四十三年十月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。

この時ソ連は「ドイツを破ったのちに参戦する方針」と回答する。

千九百四十五年二月のヤルタ会談(ヤルタ密約)では対日参戦要請を具体化し、ドイツ降伏後三ヶ月での対日参戦を約束する。

ソ連は千九百四十五年四月には、千九百四十一年に締結された五年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めない事を、日本政府に通告する。

ドイツ降伏後のソ連は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。

日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとする。

しかし日本政府では、ソ連が中立条約の不延長を宣言した事やソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議に於いて総合的な国際情勢について議論がなされる。

ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(千九百四十五年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。


この頃の関東軍首脳部は、日本政府よりもソ連参戦事態の可能性を重大な警戒感に見ていなかった。

総司令官は千九百四十五年(昭和二十年)八月八日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していた事からもそれが観てとれる。

時の山田総司令官は戦後に、「ソ軍の侵攻はまだ先の事であろうとの気持ちであった」と語っている。

関東軍第一課(作戦課)に於いては、関東軍参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。

この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。

当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていた。

それでもソ連軍の侵攻が「冬まで持ち越してもらいたい」と言う願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。

つまり関東軍作戦課に於いて、千九百四十五年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも九月以降、さらには翌年に持ち越す事もありうると判断していたのだ。

この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。


関東軍の前線部隊に於いては、ソ連軍の動きについて情報を得ていた。

第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面に於いて兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われている事を察知している。

特に東方面に於いては火砲少なくとも二百門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。

そのため八月三日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長・草地貞吾参謀に情勢判断を求めた。

しかし草地貞吾参謀からは、「関東軍に於いてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は九月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。

その旨は関東軍全体に明示されたが、八月九日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。


さらに第四軍司令官・上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月頃から絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究した。

上村幹男中将の判断では、八月三日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。

また上村幹男中将は、八月四日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えた。

しかし、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。

そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。


ソ連からの宣戦布告は、千九百四十五年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。

八月九日午前一時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。

同じ頃、関東軍総司令部は第五軍司令部からの緊急電話により、「敵が攻撃を開始した」との報告を受けた。

さらに「牡丹江市街が敵の空爆を受けている」と報告を受け、その後午前一時時三十分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

関東軍総司令部は急遽対応に追われる。

当時出張中であった総司令官・山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり」と伝える。

さらに「各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。

また、中央部の命令を待たず、午前六時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。

この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなる。

前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つ事となったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。

つまり関東軍の実情も、敗退し続けている南方戦線同様に、御多分に漏れずソ連軍を迎撃できる能力など無かった。

総司令官・山田乙三朗大将は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。

さらに総司令官・山田乙三朗大将は、宮内府に赴いて満州国・溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都する事を勧めた。

皇帝溥儀は、満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。

この満州国政府を臨江に遷都する事は、つまり関東軍が後退戦術を採る事を意味し、「開拓団の居留民(老幼婦女)を避難させずに置き去りにする無情な決断」だった。

軍が関与して最初に避難した三万八千人は、軍人関係家族、大使館関係家族、満鉄関係者などとなり、列車も飛行機も動員されて日本本土への帰国を果たしている。

比べるに、残り十一万二千人の一般居留民(老幼婦女)は暗黙として置き去りにされ、悲惨な逃避行を強いられた。

この一般居留民(老幼婦女)を守れなかった関東軍は、満蒙開拓団にとっていったい何だったのだろうか?


他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大した事から、同地域に於ける対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。

千九百四十五年五月九日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、第五方面軍は再び対ソ作戦に転換する。

このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識される。

しかし、兵力が限られていた事から、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しない事とした。

上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。


千島に於いては既に制海権が危機に瀕している事から、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。

樺太に於いて陸軍の部隊の主力となっていたのは第八十八師団であった。

同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から八月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、「現体勢に変化なし」という方面軍の回答を得たのみだった。

対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは八月六~七日、豊原での会議に於いてった。

千島に於いては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-11-30 23:37  

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