琉球王国(りゅうきゅうおうこく)
この日本人は「葦原神(あしはらがみ)」と呼ばれ、南風原(はえはら)の鶴野(つるの)に祀られたと書かれている。
その後、漢の時代になって中国が「琉球」という名前に変えたとあるも、真偽のほどは証明されていない。
十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も群れ部落的な小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。
十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も群れ部落的な小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。
当時、中華帝国(ツォンファティゴウ)側は、朝鮮半島も日本列島も琉球国や台湾島も「倭の国々(倭人の国)」と呼んでいた。
しかし「倭の国々(倭人)」と言う呼称は、中華文明から遠く離れた「辺境の地の国々」の総称だった。
その意味では、当時の日本はけして、「倭国」では無く「大和の国」を自称していた。
だから琉球國(ルーチュークク)は、自らを「沖縄人」を指すウチナンチューと呼び、当時から日本や日本人の事を大和国(ヤマトンクク)・大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。
十四世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢した事で認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。
千三百三十六年には、大陸の明帝国・福建出身の客家(ハッカ)族から琉球へ渡来した職能集団・久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)が琉球に渡っている。
琉球國(ルーチュークク)の正史・「中山世鑑」や「おもろさうし」などでは、千百五十六年、保元の乱で崇徳上皇方に属し奮戦して敗れた源為朝(みなもとのためとも/鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖・舜天(しゅんてん)になったとされる。
舜天(しゅんてん)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王とされている。
沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が二十五代続いた。
この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添の按司(あじ)であった舜天(しゅんてん)とされている。
按司(あじ)の称号は、琉球王国の称号および位階の一つで国王家の分家にあたり、古くは地方の支配の王号の代わりだった。
舜天(しゅんてん)伝承の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話が後に江戸時代後期の読本作者・曲亭(滝沢)馬琴(きょくてい ばきん)の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」を産んだ。
この曲亭(滝沢)馬琴(きょくていばきん)のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。
なお、千八百七年(文化四年)から千八百十一年(文化八年)にかけて、全五篇・二十九冊シリーズで発行された「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の挿絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)の画作である。
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、千四百二十九年から千八百七十九年の四百五十年間、沖縄本島を中心に存在した尚氏(しょうし)王統の王国である。
千四百二十九年に、南山の佐敷按司(さしきあじ)を出自とする第一尚氏王統の尚巴志(しょうはし)王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。
三山統一によって成立した第一尚氏王統は、大和(日本本土)や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。
しかし、統一後も依然として地方の諸按司(しょあじ)の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施する事はなかった。
その為、王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては六十三年間で瓦解した。
千四百六十二年、尚泰久王(第六代)の重臣であった金丸(尚円王)が、尚泰久王(第六代)世子・尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。
第二尚氏王統初代国王・尚円(しょうえん)は、元々の名を金丸(かなまる)と言い、伊是名島の百姓の出自である。
尚円(しょうえん)の王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。
その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司(しょあじ)を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功する。
彼の治世において、対外的には千五百年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに千五百二十二年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。
第二尚氏王統は、千五百七十一年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。
琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となる事を強いられた。
だが、一方で国内では時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せたとされる。
当時の琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。
琉球國(ルーチュークク)は、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。
この統治範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。
王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。
琉球國(ルーチュークク)は小さな離島の集合が勢力圏で、総人口十七万に満たない小さな王国ではあった。
だが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。
その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家・マラッカ王国との深い結び付きが知られる。
琉球國(ルーチュークク)は、外交的に貿易上の理由から、明国及びその領土を継承した清国の冊封を受けたりしていたが、千六百九年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入る。
ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。
【薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)】へ飛ぶ。
千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。
千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。
【琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)】へ飛ぶ。
琉球國(ルーチュークク)の沖縄県としての日本統合は清帝国からの異論が提示されたが、その後勃発した日清戦争後の戦後処理で琉球(沖縄)の日本帰属が確定した。
【日清戦争・琉球処分と分島改約案】へ飛ぶ。
詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。
【第六巻】に飛ぶ。
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