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薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)

十六世紀後半(千五百九十年代)、豊臣秀吉が明国とその進路にある李氏朝鮮国を征服しようとして琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国で在った為に琉球国王は一旦拒否する。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正福島正則小西行長黒田長政浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出す。

一旦拒否した琉球王国は、文禄・慶長の役で日本が実際に朝鮮半島に攻め込んだ時には、日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っている。

その後豊臣秀吉の死去により、関ヶ原合戦を経て日本の支配者は徳川家康に移る過程を辿る。

千六百二年、仙台藩伊達氏領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、千六百三年に琉球に送還される。

以後、薩摩藩島津氏を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、琉球王国は最後までこれに応じなかった。

この背景には、戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求していた。

しかし琉球側が、これを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつ在ったからである。

こうした両者の、元々在った緊張関係が琉球征伐に至る過程に大きく影響したと考えられている。

千六百八年九月には、家康と徳川秀忠が舟師(しゅうし/水軍)を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて僧・大慈寺龍雲らを遣わす。

僧・大慈寺龍雲は、琉球王国・尚寧王(しょうねいおう)及び三司官(宰相)に対し、家康に必ず朝聘するよう諭した。

三司官(宰相)の 一人で久米三十六姓の末裔の政治家・謝名利山(じゃなりざん)は聴従せず、かえって侮罵(ぶば/あなどりののしる)に至り、大いに使僧を辱めた。

こうして遂に、徳川家が江戸幕府開府した千六百三年(慶長八年)から六年後、徳川幕府から琉球征伐の御朱印が、薩摩藩島津氏に下る事となった。


千六百九年(琉球暦万暦三十七年・和暦慶長十四年)薩摩藩島津氏は三千の兵を率いて三月四日に薩摩を出発し、三月八日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍する。

三月二十六日には沖縄本島に上陸し、四月一日には首里城にまで進軍する。

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い四千の兵士を集めて対抗したが四月五日には敗れ、薩摩藩軍が首里城を陥し、和睦を申し入れた琉球国王・尚寧を捕らえ首里城は開城した。

これ以降、薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、また徳川幕府に使節を派遣し江戸へ上った。

その後琉球王国は、明国に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清国にも朝貢を続ける。

つまり琉球王国は、薩摩藩と清国への両属という体制をとりながらも、独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。

琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離された。

だが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。

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詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-04-02 21:25  

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