曲亭馬琴(きょくていばきん)
馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだと言う。
千七百七十五年(安永四年)馬琴九歳の時に父・滝沢運兵衛興義が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだ。
しかし、主家は俸禄を半減させた為、翌千七百七十六年(安永五年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。
この時既に、次兄の興春は他家に養子に出ていた。
母と妹も興旨とともに戸田家に移った為、松平家には馬琴一人が残る事になった。
馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、千七百八十年(安永九年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居する。
翌千七百八十一年(天明元年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。
馬琴は、俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深める。
二年後の十七歳で、馬琴は吾山撰の句集・「東海藻」に三句を収録しており、この時はじめて馬琴の号を用いている。
その後の二十一歳の時には、馬琴は俳文集・「俳諧古文庫」を編集する。
また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。
馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とする。
馬琴はこの時期、放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。
千七百八十五年(天明五年)母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合う。
そして次兄が貧困の中で急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。
千七百九十六年(寛政八年)、三十歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。
この年に耕書堂から刊行された読本・「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。
また、生活の為により通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。
千八百四年(文化元年)に刊行された読本・「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗する事となった。
千八百十四年(文化十一年)に、大長編読本・「南総里見八犬伝」が刊行を開始された。
「南総里見八犬伝」の執筆には、千八百十四年(文化十一年)から千八百四十二年(天保十三年)までの二十八年を費やし、馬琴のライフワークとなった。
その間に、一人息子で医術を修めた興継が宗伯と名乗りを許され陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となるも、千八百三十五年(天保六年)に死去する。
馬琴は、千八百三十三年(天保四年)頃から異常を覚えていた眼病が悪化し、千八百三十九年(天保十年)の時には失明する。
執筆が不可能となった為、息子・宗伯の妻・お路が口述筆記をする事となった。
馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対し、妻のお百が嫉妬して家庭内の波風は絶えなかった。
そのお百も、千八百四十一年(天保十二年)に没した。
同千八百四十一年(天保十二年)八月、大長編読本・「南総里見八犬伝」の執筆が完結し、千八百四十二年(天保十三年)正月に刊行される。
馬琴は千八百四十八年(嘉永元年)、お路を代筆記者として、「傾城水滸伝」や「近世説美少年録」の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、八十二歳で死去した。
馬琴は、ほとんど原稿料のみで生計を営む事のできた日本で最初の著述家で、代表作は「椿説弓張月」と「南総里見八犬伝」である。
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皇統と鵺の影人
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