真珠湾攻撃(日米開戦)の(四)
ハワイ時間午前八時五十四分(日本時間四時二十四分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。
第二波攻撃隊は、アメリカ軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行いこれを成功させた。
また、戦艦「ペンシルバニア」が収容されていた乾ドッグへの攻撃を行った。
これに対して、一息ついて反撃の余裕ができたアメリカ軍は各陣地から対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした。
しかしこの時点でフォード島のアメリカ海軍機は全滅し、飛行可能な飛行機は1機もなくなっているなど甚大な被害を受けていた。
そのため、百七十機の急降下爆撃機や戦闘機を抱える圧倒的な数量の日本軍に効果的な損害を与えることは不可能であった。
この頃、ようやくワイキキのラジオ局のKGMBが真珠湾への日本軍の攻撃を伝え始めた。
しかし、オアフ島内は情報が混乱し、真珠湾上空を飛び回る飛行機による爆音や、爆弾の爆発音を、日本軍による攻撃ではなく演習によるものと誤認するものも多かった。
なお、ハワイ庁のジョゼフ・ポインデクスター庁長ですらこの時点で真珠湾への日本軍の攻撃を知らないままで居た。
上記のラジオ局からの電話による問い合わせで「初めて攻撃を知る」と言う有様であった。
第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きかったが、「加賀」攻撃隊(零戦九機、艦爆二十六機)において零戦二機、艦爆六機を失い、十九機が被弾したのみであった。
また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)はニイハウ島に不時着、十二月十三日のニイハウ島事件で死亡した。
なお第二波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されてきたボーイングB-17の第二陣六機がヒッカム基地に着陸しようとした。
しかし、日本軍機による強行着陸と誤認した地上兵に対空砲火を受けた為、三機は無事着陸したものの、二機はハレイワ基地に向かい、残りの一機はカフクにあるゴルフコースに不時着した。
なお、これらの攻撃隊に対して、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が事前に厳重に言い渡されていた。
実際に日本軍機とオアフ島上空で遭遇した小型機は、日本軍機に視認されていたにも拘らず攻撃を受けないでいた。
しかし基地が攻撃を受けた結果、基地内に勤務する軍属や基地内に居住する軍人の家族、基地周辺の在住する民間人など合計五十七人が死亡している。
機動部隊とは別に甲標的(特殊潜航艇)を搭載した伊号潜水艦五隻は下記の編成で十一月十八~十九日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃する。
十二月七日オアフ島沖五・三~十二・六海里まで接近した。
甲標的(特殊潜航艇)はハワイ時間午前零時四十二分(日本時間二十時十二分)から約三十分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した。
湾入り口の対潜水艦防御門が空いていた事もあり、攻撃は五隻全艇が湾内に潜入する事に成功し、三隻が魚雷攻撃を行った。
しかし四隻が撃沈、出航時からジャイロコンパスが不具合を起こしていたものの、艦長の判断で出港した1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった。
その後、行方不明であった甲標的(特殊潜航艇)が発見され、魚雷は未発射であった事から魚雷攻撃を行ったのは二隻とされている。
近年までは、軍事史家・中村秀樹(元海上自衛官二等海佐)氏のように「成果なし」と評価する者が在った。
甲標的(特殊潜航艇)によって戦艦・ウェストバージニアと戦艦・オクラホマへの雷撃が行われている。
このうち戦艦・オクラホマは甲標的(特殊潜航艇)による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている。
日本では、撃沈された四隻(雷撃に成功した一隻は自沈)の乗組員八名と、座礁した艇から脱出して水死した一名を加えた九名が二階級特進し、「九軍神」として顕彰された。
座礁した艇から、艇長の酒巻和男海軍少尉が脱出して漂流中に捕虜となったが公表されなかった。
また、九軍神とされた将兵を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の八百kg爆弾で撃沈された戦艦・アリゾナは甲標的(特殊潜航艇)による撃沈と言う発表が大本営から行われた。
南雲中将の空母機動部隊は、出動した攻撃隊の収容に備え真珠湾北方百九十裡にまで南下していた。
攻撃後は次席指揮官の第三戦隊司令官・三川軍一少将から再攻撃の意見具申があったが、一航艦長官・南雲忠一は参謀長・草鹿龍之介の進言もあり、予定通り離脱した。
山口多聞少将は「第二撃準備完了」とそれとなく催促はしたが、搭乗員や参謀からの再攻撃を意見具申する要望に「南雲さんはやらないよ」と意見具申まではしなかった。
連合艦隊司令部では連合艦隊長官・山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言した。
だが、山本長官は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった。
日本時間午前八時三十分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。
午前九時頃、南雲中将率いる日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。
軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的として居た。
その為、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。
一方、連合艦隊長官・山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたいと言う考えだった。
だが、草鹿大佐によれば南雲中将には「その真意が知らされていなかった」と言う。
また、アメリカ側ではヘンリー・スティムソン陸軍長官が真珠湾攻撃について次のように評している。
当初、スティムソンはハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろうと考えていた。
それが間違いで、「日本が戦略的には馬鹿気た行為で在ったが戦術的には大成功をおさめた事を私が知った」のは、その日の夕方になってからであった。
つまり、「日本軍部は唯一の終局の結果しかない馬鹿気た戦争を始めたのであるが、日本のすべり出しは明らかに素晴らしい立派なものであった。」と評された。
十二月八日、山本五十六連合艦隊司令長官は第一艦隊の戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城及び第三航空戦隊空母瑞鳳、空母鳳翔、駆逐艦三日月、駆逐艦夕風と護衛駆逐艦若葉、子日、初春、初霜、有明、夕暮、白露、時雨等を率いて瀬戸内海を出撃した。
その際、司令部付・長官専属従兵だった近江兵次郎は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本連合艦隊司令長官を目撃している。
なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦・大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、第三航空戦隊主力は豊後水道で戦艦長門らとすれ違っている。
南雲機動部隊収容の為と言う名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した。
十二月十日、空母鳳翔は哨戒機収容の為戦艦部隊から分離して風上へ向かい、駆逐艦三隻と共にそのまま行方不明となった。
翌日になっても空母鳳翔との連絡はつかず、長門乗艦の宇垣纏連合艦隊参謀長は「そんな馬鹿げた事があるものか」と呆れている。
この時の空母鳳翔は小笠原諸島東(戦艦部隊から五百浬)の地点まで離れており、鳳翔舷側の起倒式アンテナは波浪でもぎとられていた。
十二月十三日、空母鳳翔は豊後水道を通過。
ところが、空母鳳翔入泊を護衛していた駆逐艦早苗が米潜水艦(実際には存在せず)を発見して爆雷攻撃を開始する。
呉では鳳翔沈没の噂が流れており、鳳翔艦長・梅谷薫大佐は山本五十六連合艦隊司令長官から「水戦司令官となった気分だどうだった」と笑顔で迎えられたと言う。
十二月十六日、第二航空戦隊司令・山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に転戦する。
十二月二十三日、南雲機動部隊本隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。
十二月二十六日、異例ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われる。
第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。
続く海軍大臣官邸での祝賀会では、海軍軍事参議官が参集したり、翌二十七日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。
日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦八隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。
アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。
真珠湾攻撃の直前にイギリスの植民地であるマレー半島での上陸作戦が開始されていることで、日本とイギリスおよびイギリス連邦諸国との戦争が開始された事に続いて、真珠湾攻撃でアメリカとの間にも戦争が開始された。
真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。
当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争(支那事変)にも介入には消極的であった。
連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。
さらに、駐アメリカ日本大使館員の不手際により、日本政府の意思に反して日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まる不手際がアメリカ世論に影響した。
真珠湾攻撃が真実とは反して「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝される事となり、アメリカおよび連合国の世論に影響した。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。
真珠湾攻撃おけるアメリカ側の死者は約二千四百名で、その内「四十八名~五十七名は民間人だ」とされている。
この死者の約半数は、撃沈された「戦艦アリゾナの乗組員だ」とされている。
また、日本側の戦死者は、飛行機搭乗員の五十五名、 特殊潜航艇搭乗員九名、合計六十四名、捕虜が一名だった。
アメリカ側を死者、日本側を戦死者としたのは、この攻撃で死んだアメリカ側の兵士が「戦闘行為の末になくなった」とは言い切れないからである。
この真珠湾攻撃(日米開戦)の異説として、アメリカ政府は日本軍の真珠湾攻撃察知していたが、他民族集合国家の人心を開戦に傾倒させる為に「わざと攻撃を許した」と言う説もあるが闇の中である。
この異説の根拠だが、当時アメリカが全ての空母を真珠湾から移動させていた事がその憶測を呼んでいる。
そして偶然か計画かは不明ながら、アメリカ海軍の空母が温存された事で、後のミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)における日本海軍機動部隊の大敗に結びつき、この戦争における主導権を失った。
いずれにしても、この真珠湾攻撃(日米開戦)が、戦場に赴いた兵士の九割が戦闘によらない餓死と病死と言う無残な戦いを強いられる端緒だった。
そして、日本中の都市部が空襲爆撃で死者多数の焼け野原にされると言う無謀な戦争の端緒だったのである。
真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)に戻る。
詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。
【第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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