真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)
第一航空戦隊参謀・源田中佐の真珠湾攻撃案は、出発基地を小笠原父島か北海道厚岸(あっけし)とし、空母を真珠湾二百海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。
一つ目の父島案では、雷撃可能な時は艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案である。
二つ目の厚岸(あっけし)案は、雷撃不可能な時には艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。
戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。
航路は機密保持の為に北方から進攻して急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。
本来の軍事作戦では、水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になる為に計算に入れなかった。
これに対して大西参謀長は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行う事、出発を単冠湾(択捉島)として作案した。
九月頃、大西参謀長から源田参謀が「これで行く様に」と厳命が手渡された。
手渡された厳命には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、「戦艦に致命傷がなくても行動できなくする事」になっていた。
真珠湾航空奇襲の訓練は、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。
従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていた。
しかし真珠湾航空奇襲を目的とする第一航空艦隊の航空訓練は、機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。
また、この作戦の為に空中指揮官・淵田美津雄中佐と雷撃専門家・村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した。
この作戦では、海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とする為、空母の集中配備が採用された。
攻撃案は当初、真珠湾の北二百海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ三百海里圏外に脱出する案だった。
だが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田参謀から反対が在った。
それでフォード北二百三十海里で一次攻撃、南下して二百海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。
技術的な課題は、水深十二mと言う浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、次に戦艦の装甲をどうやって貫通させるかの二点であった。
水深十二mと言う浅瀬に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑える事に成功した。
また、鴨池航空隊(鹿児島鴨池航空基地所属)による超低空飛行訓練により、最低六十mの水深が必要だったものを十m以下に引き下げる事に成功した。
事実、実際の攻撃では投下された魚雷四十本のうち、射点沈下が認められたのは一本のみの大成果で在った。
戦艦の装甲をどうやって貫通させるかに対しては、戦艦の装甲を貫徹する為に水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施された。
模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通する為の運動量の計測などが行われた。
作戦使用航空母艦は、当初第一、第二航空戦隊の四隻を胸算していた。
だが、九月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母二隻となる。
連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にする事、山本長官の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成する事が重要課題である。
その課題達成の為には、「搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したい」と考えた。
山本長官は、かねがね日露戦争劈頭(へきとう/冒頭)の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。
しかし、軍令部総長・永野修身大将は四隻案で考えていた。
千九百四十一年十月九日~十三日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。
軍令部航空部員・三代辰吉中佐はこの研究会出席の為出張して来たが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。
航空攻撃と併用して、五隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。
この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであった。
これは、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想が在った事を示している。
魚雷二本を艦首に装備した「甲標的(こうひょうてき/特殊 潜航艇)」は千九百四十年九月に正式採用され、三十四基の建造が命令された。
千九百四十一年一月中旬から訓練が開始され、八月二十日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。
訓練により戦力化に目処が立つと伴に日米関係が益々悪化する。
そうした状況に、搭乗員から開戦時に「甲標的(こうひょうてき)を使って港湾奇襲を行うべきである」との意見が盛り上がった。
先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。
この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員・有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束する。
九月初旬に、甲標的(特殊潜航艇)母艦・千代田の原田覚艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しい事から却下された。
司令部を納得させる為、甲標的(特殊潜航艇)から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行った。
だが、「搭乗員の収容に確実性がない」との山本長官の判断で再度却下された。
部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、十月初旬に三度の具申を行った。
この具申の結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、終(つ)いに計画が採用された。
十月十一~十三日に長門で行われた図上演習には甲標的(特殊潜航艇)を搭載した潜水艦五隻による特別攻撃隊が使用された。
特別攻撃隊の甲標的(特殊潜航艇)五隻には、岩佐大尉ら十名の搭乗員が選抜される。
作戦に使う潜水艦として甲標的(特殊潜航艇)を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。
千九百四十一年十一月一日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は十一月五日の昭和天皇の御前会議で承認された。
以降陸海軍は十二月八日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。
十一月十三日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。
山本長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。
この「日米交渉の妥結時帰投命令」に二、三の指揮官が不服を唱えた。
だが、山本長官は「百年兵を養うは、ただ平和を護る為である。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったと伝えられる。
十一月十七日、山本長官は佐伯湾に在った空母赤城を訪れる。
機動部隊将兵を激励するとももに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。
十一月二十二日、南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。
出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃する事を告げた。
赤城艦長・長谷川喜一大佐は、山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。
艦隊航路の選定には、奇襲成立のため隠密行動が必要であった。
連合艦隊参謀の雀部利三郎(ささべりさぶろう)中佐が過去十年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べる。
その結果十一月から十二月にかけては北緯四十度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。
なお、当時第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。
ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったと伝えられている。
十一月二十六日八時、旗艦「赤城」以下の南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾(択捉島)を出港した。
十二月一日、昭和天皇の御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の三十分以上前に行うべき事が決定された。
勿論、「攻撃三十分以上前宣戦布告」は、相手に応戦準備をさせない奇襲をギリギリのアリバイとして主張できる「違法ではないが限りなく不適切」な戦法である。
十二月二日十七時三十分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された。
ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、当時の日本の最高峰ある。
一二〇八とは十二月八日の事で、「X日(エックス・ディ)を十二月八日(日本時間)と定める」の意の符丁であった。
ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。
重責を背負った空母機動部隊・南雲中将は航海中、「えらい事を引き受けてしまった。断ればよかった。上手く行くかしら?」と草鹿大佐に語りかけたと言う。
真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)に続く。
詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。
【第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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