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租庸調(そようちょう)

租庸調(そようちょう)は、日本の律令制下での租税制度である。

この租税制度・租庸調(そようちょう)は中国の唐帝国で発祥し、中国及び朝鮮で永く採用されていた。

但し唐帝国の律令では、丁(一区画)の人数を基準とした丁租(ちょうそ)であるのに対して、日本の律令では田の面積を基準とした田租(たそ)となっている。

この為、日本に於ける租(そ)は律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。

この田租(たそ)制度は、永く日本の税制の基本となり多少の変化を見ながらも明治維新まで続いた。


日本では、六百四十六年の大化の改新に於いて、新たな施政方針を示した改新の詔(みことのり)のひとつに「罷旧賦役而行田之調」とあり、これが租税の改定を示す条文とされる。

ここに示された田之調は田地面積に応じて賦課される租税であり、後の田租(たそ)の前身に当たるものと見られている。

日本の租庸調制度は、中国・唐帝国の制度を元としているが、日本の国情を考え合わせ、日本風に改定して導入したものだった。


租(そ)は各地の国衙(こくが/地方政治役所)の正倉に蓄えられて地方の財源にあてられ、庸調(ようちょう)は都に運ばれ中央政府の財源となった。

庸(よう)と調(ちょう)を都に運ぶのは生産した農民自身で、運脚夫といい、国司(官人・役人)に引率されて運んだ。


現物を納める税は、八月から徴収作業を始め、郡家さらに国庁の倉庫に集められ、木簡が付けられ、十一月末までに都の大蔵省に納められた。

奈良時代は原則として車船の輸送が認められなかったので、民衆の中から運脚が指名され、都まで担いでいった。

往復の運搬の度の食料は自弁で在った為に餓死する者も出たほど酷い徴税制度だった。運脚たちが歩いた道は国府と都を直線で結ぶ日本の古代民衆交通路・官道(駅路)七道であった。


地震や土砂災害などの天変地異が発生した場合には地域的に免除される事があって、実際に災害の記述とともに免除の記録がある。


租(そ)は、収穫量の三%~十%に当たる田一段につき二束二把とされた。

原則として九月中旬から十一月三十日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。

しかし、歳入としては極めて不安定であった為、律令施行よりまもなく、これを種籾(たねもみ)として生産農民に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。

一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、一月から八月三十日までの間に、年料舂米として京へ運上(うんじょう)された。


生産農戸ごとに五分以上の減収があった場合には租(そ)が全免される規定・賦役令水旱虫霜条があった。

そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあり、当時の農業技術では全免・比例免を避ける事は困難であった。

そこで、一つの令制国内に於いて定められた租の総額に対し七割の租収入を確保する事を目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入された。

しかし、これを達成する事も困難であった為、八百六年(大同元年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。


庸(よう)は、衛士(えいし/宮中護衛兵士)や采女(うねめ/宮廷雑事女官)の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。

庸(よう)は、二十一歳~六十歳の男性を「正丁(しょうてい)」とし、六十一歳以上の男性を「次丁(じちょう)」として年齢を分けて賦課された。

元来は「歳役(さいえき)」といい、京へ上って労役が課せられるとされていたが、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸(よう)といった。

庸(よう)を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。

改新の詔(みことのり)では、一戸あたり庸布一丈二尺あるいは庸米五斗を徴収する規定があり、それが律令制下でも引き継がれたと考えられている。

京や畿内・飛騨国に対して庸(よう)は賦課されなかった。

この制度、現代の租税制度になぞらえれば、納税能力に関係なく全ての国民一人につき一定額を課す人頭税の一種といえる。


調(ちょう)は、中男(十七歳~二十歳の男性)・正丁(二十一歳~六十歳の男性)・次丁(六十一歳以上の男性)へ賦課された。

調(ちょう)は京へ納入され、中央政府の主要財源として官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。

繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品三十四品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。

これは、中国の制度との大きな違いである。

調(ちょう)も、京や畿内では軽減、飛騨では免除された。


飛騨国についての庸調(ようちょう)免除には、別枠の使役割り当てが在る。

飛騨の民は、庸調(ようちょう)を免除される替わりに匠丁(しょうてい、たくみのよほろ)を里ごと十人一年交替で徴発され、平安時代には総勢百名とされた。

いわゆる飛騨工(ひだのたくみ)である。

匠丁(しょうてい)は、木工寮や修理職に所属して工事を行った。


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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2016-09-29 14:30  

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