行基(ぎょうき)・大僧正
行基(ぎょうき/ぎょうぎ)の生年については六百六十八年説と、異説の六百七十七年説が在る。
六百八十二年(天武天皇十一年)に十五歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗(ほっそうしゅう)などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。
僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、行基(ぎょうき)は禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
また、行基(ぎょうき)は道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池十五窪、溝と堀九筋、架橋六所、困窮者の為の布施屋九所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。
朝廷が僧侶を国家機関と定めたのは、仏教を統治に利用する目的が在ったからである。
行基(ぎょうき)は、民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われた事、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされた事から、七百十七年(養老元年四月二十三日)詔(みことのり)をもって糾弾されて弾圧を受ける。
だが、行基(ぎょうき)の指導により墾田開発や社会事業が進展した事、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかった事、行基(ぎょうき)の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断した。
この事から、七百三十一年(天平三年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基(ぎょうき)の技術力や農民動員の力量を利用した。
行基(ぎょうき)は朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。
その後、行基(ぎょうき)は日本で最初の最高位・大僧正として聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘(しょうへい/礼を尽くして招く)された。
この大仏造立の功績により、行基(ぎょうき)は東大寺(とうだいじ)の「四聖(ししょう)」の一人に数えられている。
東大寺の「四聖(ししょう)」とは、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、華厳宗僧・良弁(ろうべん)、を指す。
七百四年(大宝四年)に、行基(ぎょうき)は生家を家原寺(えばらじ)としてそこに居住した。
行基(ぎょうき)の師とされる道昭(どうしょう)は、入唐して玄奘(げんじょう/三蔵法師)の教えを受けた事で有名である。
七百三十六年(天平八年)に、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)がチャンパ王国(ベトナム)出身の僧・仏哲、唐の僧・道セン(どうせん)とともに来日した。
彼らは九州の大宰府に赴き、行基(ぎょうき)に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。
七百三十八年(天平十年)に、日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されて朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。
民衆の為に活躍していた行基(ぎょうき)は七百四十年(天平十二年)から大仏建立に協力する。
この為、民衆の為活動した行基(ぎょうき)が「朝廷側の僧侶になった」とする説・「行基転向論」がある。
だが、一般的には権力側が行基(ぎょうき)の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基(ぎょうき)が権力者の側についたのではないと考えられている。
七百四十一年(天平十三年)三月に聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が恭仁京(くにきょう)郊外の泉橋院で行基(ぎょうき)と会見し、七百四十三年(天平十五年)東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。
勧進の効果は大きく、続日本紀に依ると七百四十五年(天平十七年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。
行基(ぎょうき)の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代に於いて具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。
その為、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。
行基(ぎょうき)は日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基(ぎょうき)が開基したとされる寺院なども多く存在する。
三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。
行基(ぎょうき)はまた、朝廷より菩薩の諡号(しごう)を授けられ「行基菩薩」と言われる。
その時代から行基(ぎょうき)は「文殊菩薩の化身」とも言われている。
なお、行基(ぎょうき)が迎えたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)は七百五十二年、聖武太上天皇(七比約四十九年に退位し上皇・太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。
この他、行基(ぎょうき)は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされる。
大仏造営中の七百四十九年(天平二十一年)、行基(ぎょうき)は喜光寺(菅原寺)で八十一歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。
また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基(ぎょうき)の弟子が彼の輿(こし)をかついで運搬した事から、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山(こしやま)とも呼ばれている。
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皇統と鵺の影人
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