和気清麻呂(わけのきよまろ)
のち藤野真人(ふじののまひと/輔治能)、和気宿禰(わけのすくね)、和気朝臣(わけのあそみ)に改めた。
清麻呂(きよまろ)は、磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)または平麻呂(たいらまろ)の子として生まれた奈良時代末期から平安時代初期の貴族である。
七百六十九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐八幡宮神託事件が起こる。
宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛を与えていた「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に就かせれば天下太平になる。」と称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)へ奏上する。
道鏡はこれを信じて、或るいは道鏡が習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就く事を望む。
称徳大王(しょうとくおおきみ)は、神託の確認に側近の尼僧・和気広虫(わけのひろむし/法均尼)を召そうとする。
だが、虚弱な広虫(ひろむし/法均)では長旅は堪えられぬ為、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。
清麻呂(きよまろ)は称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の使者(勅使)として宇佐八幡宮に参宮し、宝物を奉り宣命の文を読もうとした。
その時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊く(きく/受け入れる)事を拒む。
清麻呂(きよまろ)は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願う。
すると、身の丈三丈、およそ九mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊(き)く事を拒む。
清麻呂(きよまろ)は与曽女(よそめ)とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳大王(しょうとくおおきみ)へ報告した。
清麻呂(きよまろ)の報告を聞いた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は怒り、清麻呂(きよまろ)を輔治能真人(ふじののまひと)姓を与え因幡員外介(いなばいんがいのすけ)に一旦左遷する。
その上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。
七百七十年(神護景雲四年)八月、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は崩御し、後ろ楯を無くした道鏡は失脚したため清麻呂(きよまろ)は光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)により従五位下に復位した。
その後、和気清麻呂(わけのきよまろ)は播磨・豊前の国司(こくし/くにのつかさ)を歴任する。
この時、清麻呂(きよまろ)は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)に任じられている。
その後清麻呂(きよまろ)は、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の下で実務官僚として重用されて高官となる。
清麻呂(きよまろ)は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、七百九十三年(延暦十二年)自ら造営大夫として尽力した。
もし、和気清麻呂(わけのきよまろ)が称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の意向に応じて居れば、「この宇佐八幡宮神託事件で皇統が途切れていた。」として評価される人物である。
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