敏達大王(びたつおおきみ/天皇)
父・欽明大王(きんめいおおきみ)は、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の息子であり第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)から分かれた傍系の出自であった。
このため、先々代の仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香(たしらか)を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。
皇統のこの複雑な系流が、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)が「即位の為に任那(みまな)からやって来た任那の王族説」を否定できない理由に成っている。
この疑惑の詳しくは、小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。
つまり敏達大王(びたつおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)と仁賢大王(にんけんおおきみ)の間に為された皇子だった。
欽明大王(きんめいおおきみ)は継体大王(けいたいおおきみ)と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)の皇女の間の息子である。
そして、母・石姫皇女(いしひめ)は宣化大王(せんかおおきみ/天皇・継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、敏達大王(びたつおおきみ)は父方・母方の双方からそれぞれ継体大王・仁賢大王・雄略大王(ゆうらくおおきみ/第二十一代天皇)の血を引いている。
五百七十一年五月二十四日(欽明三十二年四月三十日に、父・欽明大王(きんめいおおきみ)が崩御したことを受け、敏達大王(びたつおおきみ)は五百七十二年四月三十日に即位する。
敏達大王(びたつおおきみ)は、五百七十五年二月四日(敏達四年一月九日)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の女、広姫(ひろひめ)を皇后としたが、同年十一月に妃・広姫(ひろひめ)は崩御する。
翌五百七十六年四月二十三日(敏達五年三月十日)、十六歳年下と言われる異母妹の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古大王)を改めて皇后に立てた。
ここに一つ謎が在るのだが、実は敏達大王(びたつおおきみ)即位前の五百七十一年に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を既に妃としていた。
額田部皇女が皇女にもかかわらずそうでない広姫(ひろひめ)が何故当初皇后となったのかは不明である。
この敏達大王(びたつおおきみ)が、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が争った宗教戦争の内乱、一方で、信仰に名を借りた権力闘争ともされる丁未の乱(ていびのらん)に巻き込まれる。
敏達大王(びたつおおきみ)は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立するという構図になっていた。
崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、五百八十五年(敏達十四年)に物部守屋(もののべのもりや)が敏達大王(びたつおおきみ)に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。
尼僧・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、晒し者にして連行し、群衆の目前で鞭打っ暴挙に出る。
五百八十五年九月十四日(敏達十四年八月十五日)敏達大王(びたつおおきみ)の病が重くなり崩御に到る。
敏達大王(びたつおおきみ)に皇太子はおらず、崩御の翌月の五百八十五年十月三日(敏達十四年九月五日)、日本書紀に依ると異母兄弟の大兄皇子が用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)として即位した。
この代替わりの結果、仏教を巡る争いは次世代に持ち越された。
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